※ 事例ノウハウだけ集中して読みたい場合は、ここをクリックしてください。
※ このブログに事例ノウハウ以外のことも書いている理由はこちら
※ カスタマワイズ 企業公式サイト:クリック
※ 事例制作サービス案内(価格表):クリック
※ 簡易動画サービス案内(価格表):クリック
※ お問い合わせ:クリック

世の中は不平等が基本

0

     「自由と平等」こそ、人間社会が到達するべき崇高な世界ですが、どうも、世の中は不平等が基本で、平等というのはよほど頑張らないと達成できないもののようです。それは数学的にも証明されました。

    次のような実験があります。


    1.まず100人に10円ずつ配ります。
    2.100人の中からランダムに2人を選びます。
    3.選ばれた1人目は2人目に1円を渡します。
    4. 1人目の所持金は1円減り、2人目は1円増えます。
      (最初であれば、9円と11円になります)
    5.2〜4を延々と繰り返します。



    するとどうなるか、100円以上持っているような超お金持ちと1,2円しか持たない大勢の貧乏人が自然にできます。



    このゲームに不平等な点はありません。はじめの所持金は同じだし、どの2人が選ばれるかも完全に平等です。


    このように完全に平等なルールの下あっても、不平等がごく自然に生じます。


    世の中は、どこか一箇所に偏る(不平等になる)ようにできているようです。



    (※ 「脳はこんなに悩ましい」。池谷裕二、中村うさぎ p.228)


    「雨になりました」について

    0

       *** 「雨になりました」

      「雨が降りました」という文の主語は何でしょうか。これは「雨」です。



      では、「雨になりました」の主語は何でしょうか? 雨? でも、主語というのは普通「は」「が」で受けるとされていますから、この場合は、雨を主語とは考えにくいです。

      ところで「雨が降りました」と「雨になりました」の違いは何でしょうか。村中の考えは、「雨が降りました」は他人事、「雨になりました」は自分事というのが違いかなと考えています。

      「雨になりました」というのは、何が、雨になったのかといえば、「その場の状況」です。その状況には自分も含まれています。雨になったのは「今」です。自分がいる、今、ここが雨になりました。ですから、「雨になりました。悲しいです」という言い方も出来ます。

      一方、「雨が振った」のは、昨日だか三日前だか、自分の今・ここからは離れた場所、時間です。自分との関係は遠く、感情もわき起こりません。

      もう一度、記しますと、「雨になった」の主語は、「その場の状況」、「自分がいる今・ここ」です。

      **** 「田中さんに読んでもらいましょう」

      ある部屋で読書会が開かれています。参加者は十名。主宰者の先生が、「今日は、田中さんに朗読してもらいましょう」と言いました。さて、朗読して「もらって」いるのは誰なのでしょうか。言い換えるならば、「田中さんに朗読してもらう」という時、この文の主語は何なのでしょうか。言い換えるならば、誰が、誰に、何をもらっているのでしょうか。「●●が、田中さんに、朗読して、もらっている」 この●●には何が入るのでしょうか。「先生」ではないはずです。朗読を聞くのは先生だけでなく、参加者全員だからです。では、「私たち」? それは一応、正解かもしれません。

      でも、村中は、田中さんから、朗読という行為をもらっているのは、「私たち」というよりは、「読書会という場」だと思います。私たちが参加している、読書会というこの場を、より充実した物にするために、田中さん、良い朗読をしてくださいねというニュアンスです。

      *** 「新製品を発表することになりました」

      「この度、我が社では、新製品を発表することになりました」という文の主語は何でしょうか。「我が社」? でも、「我が社」は「で(は)」で受けています。「で」は、「ここで制服を着替えてください」のように、場所を現す助詞です。そもそも、なぜ「発表しました」ではなく、「発表することになりました」というのでしょうか。この例だけでなく、日本語では、「結婚することになりました」、「退職することになりました」、「会社を設立することになりました」など、節目節目のイベントには、「〜になりました」が多用されます。いったい、「何」が なっているのでしょうか。

      村中は、これも「その場」「自分(or 自分たち)がいる今・ここ」が、何かに変した(なった)のだと考えています。

      日本語では、「主語・主体が何かをする」というよりは、「その場・状況で、何かが生起する」という論理で文が組み立てられているように思います。その方が、「しっくりくる」のです。

       

       

       

       

       

       


      「今日は、感動させていただきました」について。

      0

         去年の紅白歌合戦では、司会の堀北真希さんが、初司会をして感極まり、「感動させていただきました」と発言したそうです。


        これに対し、ある人が、次のようにツイートしていました。

        ---------------------------------------------------------------
        それにしても紅白歌合戦の堀北真希さんの「感動させていただきました」って言葉は凄かったな。感動を、「させて」「いただく」だぜ。日本語として間違っているとか、そんなレベルを超越している。 
        ---------------------------------------------------------------

        堀北さんは、NHKの番組司会者として、丁寧に喋ろうと思い、「感動させていただいた」という言葉を選びましたが、ツイートをした人は、それに、途方もなく違和感を感じているようです。

        最近は、何でもかんでも「させていただく」をつけるのが流行しています。「お伺いさせていただく」、「質問させていただく」、「出張させていただく」、「おつきあいさせていただく」、「結婚させていただく」、そして「感動させていただく」などなど…。

        村中は、これらの言葉遣いは、間違っているとまでは言わないまでも、不適切だと考えています。この稿では、なぜそう思うのかを書いていきます。

        ***「していただく」 vs  「させていただく」

        「〜していただく」という敬語があります。「先生に執筆していただきました」「●●さんにお越しいただきました」のように使います。

        「いただく」とは、貴人から何かを下賜される時、ひざまづいて頭を垂れ、両手を頭の上に差し出して、それを受け取る様を指します。(「いただき」は転じて「頂上」「高いところ」の意味にもなります。「山の頂き」など)

        「先生に執筆していただきました」の場合、執筆しているのは「先生」ですが、一方、それを「いただいている」のは話者です。

        「〜していただく」とは、誰かが何かをした、その行為を、私は恭しく受け取りますという構造の敬語です。

        では、「〜させていただく」はどうでしょうか。まず「させる」は、「する」の使役型です。「労働させる」「勉強させる」「来させる」のように誰かに何かを強制するときに使う言葉です。

        「させていただく」と「していただく」は形がよくにています。「〜していただく」は、「誰かが何かをした、その行為を、私は受け取る」という構造ですが、「させていただく」は、「誰かが私に何かをさせた。その「させていること」を私は恭しく受け取る」という作りです。ややこしい、まわりくどい構造の敬語です。

        ***「させていただく」は、敬意と責任回避が同時に実現できる便利な言い方

        クライアントに営業訪問した席上で、「ではご説明させていただきます」と言うとき、これは、「この説明は、私が自由意志でするものではありません。私めにそんなことをする権利はありません。この説明は、あくまで私ではない誰か(何か)が、私に『させている』ものでございます。私は、その『させられている状況』が苦痛どころか、むしろ喜びです。この状況を、謹んで受け取る(いただく)次第です」という敬語構造です。

        「誰か(何か)が自分にこれをさせている、それを自分は受け取っている」という、ややこしく、まわりくどく、マゾヒスティックで、卑屈な敬語です。

        「結婚させていただく」という言葉を聞くと、イラッとします。「結婚は、自分がしたくてするんだろ。誰かにさせられているわけじゃないだろ。そんな卑屈になるなよ。おめでたい話しなんだからもっと堂々としろよ」と感じるわけです。

        「祝日はお休みさせていただきます」という言葉にもイラッとします。「休むと決めたのは、お前だろ。誰かに休まされているわけじゃないだろ。逃げんなよ」と思うわけです。

        「させていただく」という言い方には、「すると決めたのは自分じゃない(誰かがさせているんだ)」という言語構造があります。つまり敬意を示しながら同時に責任回避もできるという、一石二鳥の敬語です。

        この責任回避の魅力が、多くの人が「させていただく」を連発し、ついには堀北真希さんが、「感動」という、自発的に、自然にわき起こる感情についてさえ、「感動させていただく」という卑屈で表現をせざるをえなくなった理由だと思います。感動にまで、責任回避する必要はないでしょう。

        このように「させていただく」というのは、本質的に卑屈・卑怯な言葉なので、あまり多用しない方が良いと考える次第です。

        ※ 「させていただきます」は、「本当に誰かに何かをさせられている場合」なら使って良かろうと考えています。たとえば、村中は、事例の取材に行って挨拶するときに、「本日、取材をさせていただきます、村中と申します」と言うことがありますが、これは自分の中では、「ま、よかろう」と思っています。実際に、その場の取材は、クライアントが村中に、お金を払って「させて」いるものだからです。

        二重表現(2)

        0
           先日、「二重表現、ちょっとぐらい許してもいいんじゃないか」というブログを書きました。その続きです。










          最近、仕事で次のような文章を書きました。

          ----------------------------------------------------
          わたしは、肌が脂性なので、当時は「ダブル洗顔」の絶対信者でした。まず最初にクレンジングでメイクを落として、それから次の泡洗顔でゴミやほこりを落とす、これでなきゃ脂性の私の肌はキレイにならない、そう信じ込んでいたのです。
          ----------------------------------------------------

          「まず最初に」と「それから次に」が二重表現ですが、意図的にこのままにしました。ここは、二重にして強調しないと、話が見えにくくなると考えたからです。

          「数を数える」、「部品の個数を数える」という言い方があります。これは、どうも許されている言い方のようですが、厳密には、というか、一目見て明らかに、二重表現です。

          でも、まあ、これは許して良いんじゃないでしょうか。

          「二重表現」の一部、「表現」という言葉は、「表(あらわ)して現(あらわ)す」、「表(おもて)に現す」のどちらかの意味だと思いますが、

          前者なら明らかに二重表現ですし、

          後者にしても、「裏に現す」ことはないのだから、やっぱり二重表現になります。

          でも、当然ながら「表現」というのは、正しい言い方です。

          話がややこしくなりましたが、結論は前と同じで、「二重表現、ちょっとぐらい許してもいいんじゃないか」ということです。



          村中とソーシャルメディア

          0

             村中は、一応、facebookにアカウントを持っていますが、しかし、そこでの情報発信はほとんどしていません。友達申請をくださる方には恐縮ですが、今後もこのままだと思います。


            村中がfacebookを積極更新しない理由は次の3つです。



            1.もともとインタラクティブな人でない。


            村中は、あんまりソーシャルな人ではありません。ネット上で何かを発言すると、それにコメントがついて、また、それにお返しコメントをしたりというようなコミュニケーションは、好きな人には楽しいことなのでしょうが、村中は、わりと苦手です。個人的には、このブログのような一方通行(言いっ放し)の媒体の方が好きです。


            2.プライベートのこっ恥ずかしい話が、うかつに拡散するのは困る



            村中は既にいい年であるにも関わらず、一年前に、とつぜんSPEEDの大ファンになってしまい、オリジナルアルバムは言うに及ばず、コンピレーションアルバムや、映画アンドロメディアのサントラにいたるまで、すべてのCDとDVDを購入し、昨年はファンミーティングの優先予約券ほしさにファンクラブにも入会してしまったことは、けっこう、こっ恥ずかしくはあるものの、こうして自らの意志で公表する分にはかまいません。しかし、メンバーの今井絵理子さんが、twittter上でfacebook始めましたというので、さっそく見てみたら、「いいね! 押してください!」と書いてあったので、はい、もちろんということでポチッと「いいね」を押したところ、自分のfacebookページに、「村中さんは今井絵理子さんをいいね!しました」と大写しに表示されてしまい、確かにいいね!を押したのは事実なのですが、一応、村中のアカウントには、「日本唯一の事例広告コンサルタント、村中明彦!」を期待してアクセスしてくる人もいるわけで、にもかかわらず、ほとんど更新していないページの真ん中に、「今井絵理子 いいね!」だけ写っている状況を招くことは、少々よろしくないと言わざるをえません。その他、家で酔っ払っては、いろんなページにアクセスしている、その履歴が、自分で気づかないうちに、そっくり公開されてしまうのは、これは避けたいところです。



            3.自分のビジネスにはたぶん関係ない。顧客と双方向の対話をしたくない。


            カスタマワイズは法人向けビジネスです。法人営業というのは、お客様は9時から5時の会社に勤務している会社員です。んで、村中の感覚だと、社員が9時5時の勤務時間中にfacebookとかやっていいわけないと思うわけですが、どうなんでしょうか(最近の企業ならば、もしかしたらOKなのでしょうか)。それにソーシャルをビジネス活用したりすると、顧客と双方向の対話をしなければいけないそうですし、そういうのは村中はめんどくさいのでパスします。それよりは、既存顧客に「ども! 村中です。お久しぶりです」とか言って、営業電話でもかける方が、自分に向いているし、ラクだし、売り上げにもつながりそうな気がします。



            以上が、村中がfacebookアカウントを持っているのに、あんまり情報発信しない理由ですが、ここまで読んだ人の中には、そこまで言うなら、最初からfacebookアカウントなんか持たなければいいじゃないかと思った人もいるかもしれません。


            でも、そうはいきません。
            実は村中はfacebookのヘビーユーザーなのです。ウチは、親戚どうしがとても仲が良く、2年に1回は、みなで一泊二日の旅行に出るほどなのですが、最近、村中の弟が、親戚皆にfacebookアカウントを取らせて、相互連絡可能にするという快挙を行いました。この親戚部屋を見れば、いとこやおじさん、おばさん、姪っ子、甥っ子の近況が分かるので、たいへん便利だし、楽しいです。コメントも積極的に書き込んでいます。


            この親戚部屋を使っている分には、ソーシャルメディア、いいなあと思うのです。


            政治と売上げ

            0

              村中がまだ20代前半の新卒社会人だった頃、お客様から会社にかかってきた苦情電話を運悪く(?)受けてしまい、あわあわしていたところ、先輩が、「村中クン、そんなに真剣に対応しなくていいよ。その人って、ウチのお客にはならない人だからさ」とアドバイスをくれました。


              業界によっては、さらに露骨に、儲けにならないお客を「ゴミ客」、「どぶ客」と呼ぶところもあるそうです(こうした言葉で検索すると例が出てきます)。


              ここまで露骨でなくとも、顧客を購買実績別に「Aランク」、「Bランク」、「Cランク」に分別するぐらいはどの企業でもやっているでしょう。「お得意様」と「通常のお客様」ぐらいの区別ならどんな小さい商店でもやっています。


              このように、企業というものは「たくさん買ってくれる人」を優遇し、「あまり買ってくれない人」「ぜんぜん買ってくれない人」は冷遇しないまでも、普通視します。


              村中は、これが悪いことだとか企業の身勝手だとかは、ぜんぜん思いません。「お客様第一主義」とは裏を返せば「お客様でない人は第二にします」という意味です。企業が、「お客に何かを売って存続している団体」である以上、たくさん買ってくれる人を優先するのは当然だといえるでしょう。


              一方、政治家という職業にとって重要なもの、「売上げに相当するもの」は何かといえば、これは「得票」になります。「お得意様」に相当するのは「支持者」。「浮動票」は「見込み客」となり、「選挙に行かない人」は「客でない人」となり、ケアの対象外となります。


              政治家は、落選したらただの人ですから、票は何が何でも得なければいけません。建前上は「日本のため」「国民のため」といっても、実際のところは「自分に票を入れてくれる人」のために動くことになるでしょう。


              これは企業がCMなどでは「よりよい社会のために」と言ったとしても、実際は「売上げを上げてくれるお客のために」動くのと同じ構造です。


              現代の日本では、大きくは、老人は選挙に行きますが、若者は選挙に行きません。そうであれば、政治家が、老人に有利な政策を重視し、若者向けには何もしないのも当然のことになります。若者は、どうせ選挙に来ないのだから、そのために東奔西走して政策を作るなど徒労です。自分の票に関係ない人のために粉骨砕身できる聖人君子は、おそらくいないでしょう。


              となると、選挙で投票することのとりあえずの意義は、「政治家に、自分は客だと認知させること」となるでしょう。白票であっても、「次は自分に投票してくれるかもしれない人」ぐらいには思われます。

              政党の選択基準は、「消去法」しかないような気がします。自分の考えや利害にあつらえたようにぴったりの政党などあるはずがありません。そうであれば「より悪くないところはどこか」という風に考えて、消去法で、投票先を決めるしかないように思います。


              とりあえず「客」にならないと相手は動いてくれません。選挙に行くのは面倒ですが、「自分を客として認知させる行動」としては、やはり投票を行うほかないように思います。

               

               


              ヘルタースケルター、よかったです

              0

                蜷川実花監督 沢尻エリカ主演の映画、ヘルター・スケルターは、「目で料理を食べるような映画」でした。


                料理では、様々な食材が、巧みに調理、混合され、それが皿の上に艶やかに盛りつけられていますが、口に入れれば全部がグチャグチャになり、だけどそのとき、脳には「おいしい!」という信号が発生します。ヘルタースケルターも同じように、沢尻エリカというメイン食材と、脇役の男優たち、女優たちというサブ食材が、蜷川実花の極彩色のメソッドで調理され、その映像を目で取り込みセリフを耳に入れ込み、脳の中でグチャグチャに混ぜ合わせて、堪能したところへ、上野耕路の音楽が冷たいワインのようにクールダウンするという、とても目と耳においしい映画でした。


                では、この映画の良かったところについて、様々なところから書いていきたいと思います。


                *** 1: チーム沢尻


                「別に…」発言で、一躍、お騒がせ女優となった、沢尻エリカも、半年ぐらい前は何となく話題に上らなくなり、つい最近まで、やや忘れられかけていましたが、そんな腐りかけの果物のいちばん美味しい時機に、絶好のタイミングで公開されたのが、今回の映画です。


                ヘルタースケルターは、上映時間の四分の三ぐらいが、沢尻エリカ演ずる主人公りりこが映っています。このりりこは、出演時間の間、悪いことか自分勝手なことか、どちらかしかしませんが、そのアンフェアでダーティなところをビューティで帳消しにするという役柄なので、映像の沢尻エリカは「スクリーンを制圧するほどの華やかな美貌がないといけません(蜷川監督・談)」。そして、その狙いは十分に実現できていたと思います。沢尻エリカの見た目は、プロポーション、肌ツヤ、髪のツヤなど、すべてがさすがでした。


                かつて北島康介が金メダルを取ったときに、「自分はチーム北島の泳ぎ担当です」とコメントしていました。金メダルの泳ぎが実現できたのは、コーチやトレーナーなど全員の献身があったからこそで、自分はチームみんなの力を、泳ぎという形で具現化したにすぎないと言っているのです。


                今回のヘルタースケルターでも、沢尻エリカの華やかな外見は、本人の努力だけでなく、衣装、照明、メークなどの「チーム沢尻」みんなの賜だと思いました。個人的に、ほほーと思ったのはヘアメークです。今回、沢尻エリカは全編にわたりストレートロングですが、その長い髪の毛が、場面ごとに色やツヤを変えて、髪が芝居をするのです。


                基本は頭頂に天使の輪をつけた、つややかで張りのあるロングヘアーです。この映画の撮影期間がどれぐらいであったかしりませんし、このつややかさをキープし続けるのは大変であったろうと、男の村中でさえ感じました。ヘアメークさんに拍手です。


                また、りりこが悪いことをする時は、真夜中のカラスもかくやと思わせる大盛りの黒髪に変わります。雨の中で失意に泣き崩れるときは、ロングヘアーが、汚い海草のように、べとべとと情けなく肌にまつわりつき、自らを鏡に写して整形の崩れに怯えるときは、パサパサの乾燥髪になります。ラスト近くで、運命を受け入れる決意をしたときは、亜麻色の暖かみのある色に変わっていました。


                これに限らず、メーク、服装、装身具、部屋の調度、照明など、蜷川実花監督が、2時間全編にわたり自らの色彩技術と映像感覚のすべてを注ぎこんで、沢尻エリカという素材をひたすらいとおしみ、ひたすら手をかけていることが、よく伝わりました。こんなに手をかけてもらって、かまってもらって、これはもしかしたら、沢尻エリカの人生で、もっとも多く愛された経験なのかもしれません。ひとつの女冥利ではないでしょうか。


                ヘルタースケルターは情交シーンの多い映画ですが、もっともぐったりするのは、蜷川監督が沢尻エリカをいじくりまくる映像そのものであったと思います。




                (※ クリックすると音声が出ます)



                *** 2: 精も根も尽き果てた?沢尻エリカ


                プレミアを体調不良で欠席。ところが同じ日に金髪ショートカットで遊び歩いていたところをパパラッチされ、相変わらずのお騒がせぶりを保っている沢尻エリカは、初日の舞台挨拶には、ヒマワリ柄のワンピースに金髪ショートカットで登場しましたが、村中は、見た瞬間、「あちゃ、映画に比べると、劣化してないか? 少し顔、むくんでるんでないの?」と思いました。瀬川 瑛子かと思った。


                しかし、それも無理なからぬことです。撮影中、プロポーションとお肌のコンディションを保つのは本当に大変だったと思います。撮影が終わり、緊張が解けて、もしかしたらポテチの一気食いぐらいしているかもしれません。その影響を隠すための、金髪&ヒマワリというビジュアル戦略だったのかもしれません。村中は責める気にはなれず、むしろお疲れ様を言いたいところです。映画は良かったわけですから。





                ***3: いつもキョドってて、今イチ苦手だった寺島しのぶが今回は当たり役!


                ヘルタースケルターでりりこに翻弄されるマネージャー役を演じていた寺島しのぶは、近年は若松孝二監督「キャタピラー」に主演しベルリン映画祭で最優秀女優賞を受賞するなど、名優として名高いのですが、村中は、この人がどうもずっと苦手でした。


                おそらく大変な努力家であり、きっと演技も上手いのだと思いますが、主演女優賞を取った「キャタピラー」の演技が、戦争で手足を失った夫にまたがって、愛憎ないませの感情の高ぶりの中で、これ食えと夫の口と顔に生卵をぶちまけるという演技だそうで、予告編でちょこっと見ましたが、いやー、これ映画館では見たくないわ〜と思いました。


                寺島しのぶの母親は、同じく女優の富司純子(東映時代は藤純子)です。しかし、緋牡丹博徒 など女ヤクザものに主演した藤純子が、演技の巧拙はさておき、「お命頂戴いたします」の啖呵もそれは堂々としているのに対し、娘の寺島しのぶの方は、どうもなんだか目が泳ぐというか、今ひとつ堂々としていないというか、今風の言い方で言えば、キョドっているので、観客として見ていると、何かイライラしてしまうのですね。


                ところがヘルタースケルターで蜷川監督が寺島しのぶに与えた役は、りりこ(沢尻エリカ)に、イライラされ、八つ当たりされ、ナメられ、翻弄され、人間オモチャにされる中年マネージャーの役で、これは寺島しのぶの、「堂々としていないところ」「キョドっているところ」がかえって役にピッタリであり、まさしく当たり役でした。


                映画ヘルタースケルターは、筋立て、設定はほぼ原作の漫画を踏襲していますが、大きく変わっているのが、この女性マネージャーの年齢です。原作のマネージャーはりりこと同年代の20代の女性でしたが、映画では35歳の中年女性。これは映画を見ていて、その手があったかと感心しました。


                35歳のいい大人が20いくつの小娘に罵倒され操作され翻弄されることで、りりここと沢尻エリカの凶悪さと美しさがさらに引き立つのです。さすが蜷川実花、女の配置にはものすごい才能です。おそれいりました。


                ***4: 大の苦手の桃井かおりも当たり役だった!


                寺島しのぶと同じく桃井かおりも、村中には永らく苦手な女優でした。この人は、「疑惑(1982年 野村芳太郎監督)」でも「ええじゃないか(1981年、今村昌平監督)」でも、男を狂わす悪女役で出演することが多いのですが、率直に言って、大美女ということもなく、映画を観ていても、わざわざ桃井かおりに狂わされなくてもいいじゃないかと思えてしまいます。演技力も特に高いとも思えず、どの映画でもドラマでもCMでも、いつも金太郎飴的に桃井かおりのあのしゃべり方、あのイントネーション。個性といえば個性なのでしょうが、村中はどうもあのしゃべり方が苦手で、見ていると、つい、「おい、もっと真面目にやれよ」、「少しは人の話を聞けよ」と説教くさい苦言を呈したくなります。


                村中としては、これまで、桃井かおりが出ていることでさらに良くなっている映画というのを今まで見たことがありません。今村昌平監督は著書の中で、「ええじゃないかに、桃井かおりを使ったのはミスキャストだった」と明言していました。


                だがしかし、今回のヘルタースケルターでは、桃井かおりがとんでもない当たり役だったのです。桃井かおりが出ていることで映画がすごく良くなっていました。


                この映画で桃井かおりは、醜女だったりりこに全身整形をさせて美女に生まれ変わらせた芸能プロダクションのやり手女社長として登場します。桃井かおりの、あのふざけた感じ、あのインチキくさい感じが、虚飾と計算だけに生きる芸能プロダクションの女社長にぴったりでした。映画全編にわたり、桃井かおりは、話すこと全てが邪悪で、その場しのぎで、誠実さのかけらもありません。


                映画の終盤で、芸能界からも干され、深く傷ついたりりこ(沢尻エリカ)が、「ねえ、ママ、あたしって赤字だった?」と胸の奥から絞り出すような泣きそうな声で問いかけたのに対し、「そりゃ赤字よお〜」とあの桃井かおりのしゃべりであっさり返事するシーンの邪悪さと言ったらありませんでした。原作では、この女社長はも少し太ったおばさんであり、これも映画で設定が変わっているところのひとつです。蜷川監督、女の配役センスすごい。



                *** 5: マッドサイエンテスト女医に、原田美枝子を当てるとは!

                醜女だったりりこをスーパー美女に生まれ変わらせた美容整形の狂気の名医を演じているのは原田美枝子でした。原田美枝子といえば、個人的には、黒澤明監督の「乱(1985年)」での楓の方役が印象に強いです。正統派の美人女優だと思います。

                この女医は原作では60過ぎの、地味なひっつめ白髪のおばあさんでした。時空を越えてキャスティングして良いなら岸田今日子とかが適役かなと勝手に思っていましたが、そこに原田美枝子をはめこむとはやられました。岸田今日子ではベタすぎ、安易すぎでした。原田美枝子の方が絶対いいです。おそれいりました。この女医はいい人に見えても悪い人に見えてもいけない役ですが、それを唇の引き締め方で表現しているのが、なるほどーと思いました。









                *** 6:妙に納得させられた水原希子


                人工美女、沢尻エリカの地位を脅かす、天然美少女、吉川こずえ役を演じていたのが、水原希子という女優(ファッションモデル)でした。村中はこの人のこと知らずに、この映画で始めて見ました。映画の中では、「いるのよねぇ、こういう生まれつきキレイって子が」と紹介されていましたが、正直、村中としては、「存在感はあるなあ。でも、そんなに大美女かなあ」と思ってしまいましたが、これは男
                目線と女性目線の違いなのかもしれません。水原希子はSPAなど男性誌のグラビアに出る感じではなく、「女性目線から見た、ナチュラルでキレイな女の子」ということになるのでしょう(ちなみに村中的には、「いるのよねぇ、こういう生まれつきキレイって子が」と思うのは、石原さとみとかです)


                でも、映画の中でのバランスという点では、たしかに水原希子は、見た目も、雰囲気も、沢尻エリカとまったくダブっていません。そして、この吉川こずえ役は、見る観客に「この子はぜったい整形していない」と確信を持たせるルックスでなければいけません。そう考えると、なるほど水原希子だなと、妙に納得させられました。


                ***7: 映画に軽さを与えていた上野耕路の音楽


                この映画は、映像は濃いし、ストーリーも陰惨なので、どこかで「軽さ」を確保しなければいけません。原作マンガでは、それは岡崎京子の白く乾いた絵柄でしたが、ぐっしょりした極彩色の映像が持ち味の蜷川監督は、映画の中で、どこで軽さを与えるのだろうかと注目しながら、映画を観ましたが、それは上野耕路の音楽でした。上野耕路はクラシックとモダーンミュージックと大陸歌謡をミックスさせた優雅で軽妙な音楽を作る作曲家です。村中的には、戸川純と組んでいたユニット、「ゲルニカ」が印象に残っています。ヘルタースケルターでは、ぐったりする映像世界を、軽快で優雅な音楽でクールダウンしていました。刺激的なカットが次々移り変わるシーンに合わせて、ソビエトの大作曲家、ショスタコービッチ風(というか、まんま)の音楽が重なっていたところが特に印象に残りました。この映画に上野耕路を起用したのは、ひそかなファインプレーだと思います。

                 
                (※ クリックすると音声が出ます)


                ***8: 脚本は堅実だったと思う。


                この映画を観る前の一番の不安要因が脚本でしたが、原作のツボを押さえ、しかし原作に飲み込まれすぎず、原作のセリフの順番を入れ替えたり、一部のシーンや登場人物を省略したり、映画が映画として成り立てるよう、脚本の金子ありさは、堅実に仕事したと思います。一部には、ラスト20分が冗長すぎるという声もありますが、まあ、原作もそんなかんじだからなあ。現実から幻想へとブリッジをかける部分の映像表現は、まあ、とりあえずああやるのが手堅いよなあと思いました。あれをスッキリさせるには、原作を離れて、別のストーリーを考えなければいけなくなります。そこまで求めるのは酷ではないかと。

                以上、映画ヘルタースケルターの良かったと思うところを書きました。次回は、「気になったところを書こうと思います。



                P.S: 今、このブログを書きながら、アメリカ映画「プレシャス」のテレビ放映を横目で見てますが、なんだか「逆・ヘルタースケルター」みたいな世界です。


                 


                ヘルタースケルター、ちょっと不安 (脚本が)

                0

                   先日、「いち映画ファンとして沢尻エリカ主演のヘルタースケルターに期待!」というブログを書きました。http://blog.customerwise.net/?eid=1233741 芸能界トップスターだけど全身整形の人工美女が真っ逆さまに転落していくというストーリーなら、沢尻エリカは当たり役。当たり役はすべてを凌駕する。だから期待! (ただし、脚本さえ良ければ、という条件付きですが…)ということを書きました。


                  いよいよ、明後日公開と言うことで雑誌で特集が組まれたり、テレビで予告編が流れたりしてますが、それを見る限りでは、うーん、もしかして、この映画良くないかもな〜という気もしてきました。特に予告編やテレビスポットを見る限り、何か、脚本が良くなさそうな気がするのです。


                  どういう風に良くないのか。もしかして、ストーリーから台詞回しから原作をほぼ、「まんま」で使っている可能性が高いな〜という気がするのです。もしそうだったらマズイ。マンガと映画は成り立ちが違うので、それに合わせて脚本も変えないと。


                  監督の写真家、蜷川美花も、原作漫画家 岡崎京子も、女子系、ポップカルチャー系というところでは共通点がありますが、しかし、蜷川美佳がどぎつい色彩を好む極彩色写真家であるのに対し、岡崎京子は、墨ベタやスクリーントーンをあまり使わないモノトーンの乾いた画面を基調にしています。原作、ヘルタースケルターは悲惨なお話ですが、不思議に重くありません。ストーリーの最後は軽く浮遊していくようですらあります。それを支えているのが、岡崎京子の乾いた軽い絵柄だと思うのです。


                  一方、蜷川美佳は、こってりしっとり水分たっぷりな絵柄なので、脚本を岡崎京子の原作そのままにすると、不整合になるような気がします。ここはひとつ、自分の画像感覚に合わせた脚本になっていてほしい。岡崎京子の原作どおりに作るのではなく、ぜひ映画としての、追加、修正、削除を加えていてほしいと期待するわけです。

                  現代の映画監督で、「当たり役の起用が上手だな〜」と思うのが中島哲也監督です。「下妻物語」では、田舎のロココひとすじ少女に深田恭子を、特攻服のヤンキー少女には土屋アンナを当てました。いずれも、椿三十郎が三船俊郎以外にあり得ないとの同じぐらいに当たり役だったと思います。2010年に方が最大のヒットとなった「告白」では、冷たい復讐に燃える女教師に松たか子を起用しましたが、これも当たり役だった。現代にも演技派女優は、満島ひかりや宮崎あおいなどいろいろいますが、やっぱり、告白は松たか子の方がいい。なぜかというと、まず松たか子は「かわいげ」がすごく少ない人です。それがこの女教師には適していた。満島ひかりや宮崎あおいが演じても何とかなるかもしれませんが、どうしても「かわいげ」が漏れ出ていたでしょうkら。次に、松たか子は、演技派といわれていますが、あれでなかなか体の動きがカタイ。動きはそんなに速くない。村中は、演技が上手い女優は山田五十鈴でも田中絹代でも例外なく動きが速くて柔らかいと思うのですが、松たか子は、けっこう体がカタイ。でも、「告白」の女教師にはそれがかえって合っていました。中島監督、さすがだなあ。配役がうまいなあと。


                  ですが、しかし、「当たり役は全てを凌駕する」というのは、その前提に、「ただし脚本がしっかりしていれば」という条件がつきます。中島哲也監督の映画は、「下妻物語」も「告白」も、原作小説の映画化でした。いずれの作品も原作の流れにほぼ忠実ですが、要所要所で修正、追加をしています。その修正、追加は、「小説だったら、そこ省略してもいいかもしれないけど、映画だと、ちゃんと説明しておかないと観客を引っ張れないから」という意図のもので、個人的には、下妻物語の冒頭で、深田恭子が八百屋の軽トラに吹っ飛ばされて宙を舞うという、原作にはないシーンから始めたところは、なるほどなあと大変勉強になりました。それにより、映画全体に、「謎かけ」がなされ、かつ「話の地図」も示されていたからです。中島監督は、凝った映像が注目されがちですが、しかし、その凝った映像がキワモノにならないのは、脚本に負うところが大きいと思います。


                  (※ 先般、事例の文章の黄金構成というエントリをアップしました。村中は、事例の文章構成では、中島哲也や黒澤明など、日本映画の脚本も書く監督の技を、おそれながら、だいぶ参考にしました)


                  たしか今村昌平だったか、「映画は脚本7割、配役2割、演出1割」と言っていました。

                  現在、ヘルタースケルターは沢尻エリカがおっぱいを出していると言うことで話題になっています。それはそれで結構なことかとは思いますが、脚本がしっかりしていないと単なるポルノになってしまいます。



                  ヘルタースケルターは、村中、前売りを買いました。連休中に見に行こうと思います。面白いと良いんだけでなあ。


                  山田五十鈴なら

                  0

                     大女優、山田五十鈴さんがついに今日、95歳でお亡くなりになりました。女優としての功績は、今日のテレビニュースなどで放映するだろうから、村中は別のことをここで書きたいと思います。


                    それは、「素人にも分かるほど、もんのすごい三味線の弾き手としての五十鈴さんです」



                    もう、この写真だけですごいですよね(「鶴八鶴次郎」より)


                    山田五十鈴は大正6年(1917年)生まれなので、美貌が最も盛りであった18才〜28才の10年間が1935年〜1945年、つまりほぼ戦争中に重なっています。映画女優としては、昭和に入ってから黒澤明の「蜘蛛の巣城」や成瀬巳喜男の「流れる」で見せた、芸の化身のような演技が有名ですが、卵に目鼻を載せたような、ザ・日本美人としての五十鈴さんが見られるのは、あまり知られていない戦前、戦中の作品なのです。


                    村中が特にお勧めしたいのが、戦中に撮影された「鶴八鶴次郎(昭和13年)」、「芝居道(昭和19年)」、「歌行燈(昭和18年)」の、成瀬巳喜男監督の芸道三部作です。




                    山田五十鈴は、母が大阪、北新地の売れっ子芸者で、数え年6歳から常磐津、長唄、清元、踊りを習い、何と10歳で清元の名取となったほどの芸事の天才少女でした。映画作品でも、「鶴八鶴次郎」では三味線と長唄を、「歌行燈」では舞を、「芝居道」では女義太夫を披露していますが、いずれもお見事すばらしい参りましたという他ないすばらしい芸でした。


                    村中は別に芸事に目や耳が肥えているわけでもありませんが、そんな素人でも分かるほど、明らかにすごいのです。


                    (「鶴八鶴次郎」 4:30あたりから長唄と三味線)

                    これら芸道三部作はいまだDVD化されておらず、映画館で観るほかありません。今回の逝去を機に映画館では、山田五十鈴の旧作映画が上映されるでしょう。


                    晩年には、「人生はひとすじがよし寒椿」という句を詠んだほどに芸道にひたむきに生きた山田五十鈴さんを弔うには、出演なさった映画を見に行くのが何よりではないでしょうか。


                    おそらく神保町シアターと文芸座のどちらか(あるいは両方)で追悼上映があると予測しています。


                    いち映画ファンとして、沢尻エリカ主演「ヘルター・スケルター」には期待せざるをえません

                    0


                      ある社会派の監督の映画で、純真な少年をつぎつぎ誘拐しては暴行・惨殺し、逮捕された後も反省の色を見せず、法廷では被害者の遺族に暴言を吐き続け、もちろん死刑判決を受け、最後は首つりで死ぬという脇役がいました。演じている俳優は、それは見事な演技力で、顔を布で覆われ、首を吊られ、痙攣して死んでいくシーンなどとても演技とは思えない迫力でした。


                      その迫真の演技を見ながら、「こういう変質犯罪者の役って、どうやって役作りするのだろう」と素朴な疑問を感じました。村中は、演技技術についての知識も経験もありませんが、大きくは、役柄の気持ちを理解し、それになりきることで役に入っていくのでしょう。ということは変質犯罪者の役を演じる場合は、「殺人、楽しい!」、「反省してません」、「国家に殺されていくオレを、神様、助けて!」という勝手な気持ちを自分の中から作り、それを反芻、反復しながら、役になりきっていくのでしょうか。あくまで外野の考えですが、恋愛物語のヒロインや冒険物語の主人公を演じるのに比べ、あまり楽しそうではありません。そうした犯罪者を演じる俳優は、おそらく「良い演技ができる事の純粋で孤独な喜び」を感じているのか、あるいは「それで映画が良くなるのなら、自分はそのためにベストを尽くす」という職人精神を演技の原動力にしているのかもしれません。


                      *********************************


                      もうすぐ映画「ヘルタースケルター」が公開されます。原作は岡崎京子の同名のマンガで、主人公りりこは、誰もがうらやむ芸能界のトップスターですが、「もとのままのもんは、骨と目ん玉と爪と髪と、耳とアソコぐらい」という、全身整形の人工美女です。もとは誰にもふりむかれない醜女だったりりこが、もって生まれた素晴らしい骨格を生かし、「生まれたときに決定されたもの? そんなの踏みつぶしてやったわよ」と、つらい整形手術を経て、誰もがうらやむスーパー美女に生まれ変わり、だけどそれからまっさかさまに転落していく様を300頁にわたって描き抜いた原作は、美しくも陰惨なお話でした。


                      そのりりこを演じるのが、あの沢尻エリカです。


                      映画や演劇では、「当たり役はすべてを凌駕する」と言われます。その役にぴったりの俳優を起用すれば、それ以外がぜんぶダメでも、関係なく映画は良くなるというのです。であるならば、ヘルタースケルターりりこの配役として、それ以外ぜったいにありえないという女優、沢尻エリカを得た、映画ヘルタースケルターは、もしかしたら大傑作になるのかもしれません。


                      沢尻エリカは、ヘルタースケルターの試写会挨拶をすっぽかしました。5年ぶりの主演映画なのに、PR活動もすべて休止。医師の判断によると「一定期間の静養が必要」とのことで、7月5日に予定されていた本作のジャパン・プレミアへの出席や、その他の芸能活動についても、「今後の経過を見ながら判断するとのことです。


                      いま、沢尻さんはどんな精神状態なのでしょうか。



                      「あたしはもうすぐ使いものにならなくなる。もっと長くもつかと思ってたけど……意外と早かったなあ。あたしが売り物にならなくなったら?ママは? あたしを捨てるでしょう。ママだけじゃないわ。みんな、今ちやほやする人だって、離れてゆくわ。そしたら今のくらしだって…全部おじゃんのパーッてわけ? う、う、う、うふ、ふふ、ふふふ、アッハハハァの大笑い!! んなことさせるかバーロー!!あたしは絶対に幸せになってやる。じゃなかったらみんな一蓮托生で地獄行きよ。ちくしょう、さもなくば犬のようにくたばってやる」


                      と、このセリフは村中の創作ではなく、マンガ原作のりりこのセリフをそっくり抜粋したものですが、これは、今この瞬間に、高級マンションの一室で沢尻エリカが、ひざを抱え、震えながら語っているモノローグだとしても、そのままあてはまるのではないでしょうか。

                      何が言いたいのかというと、この映画では沢尻エリカは、役作りして役にのめりこめばのめりこむほど、どんどん精神を追いつめられてしまうのではないかと思ったのです。


                      原作ヘルタースケルターのりりこと、現実の沢尻エリカはあまりにもリンクしてしまいました。そもそも、もっとも下世話な話として、現実の沢尻エリカが整形しているのかどうかは知りませんが、もしやと思わせる部分はあるのであります。もう映画の役と現実の自分の区別がつきません。これが完全な職業俳優なら虚構と自分を切り離すことができるかもしれませんが、俳優というよりはタレントの沢尻エリカにそんな器用なことができるとも思えません。

                      監督の蜷川実花も、「あまりに出来すぎな筋書きに、物語が現実に追いつかれそうな気がしてなりません」と言い、「現場での彼女はりりこそのものでした。『りりこの役がなかなか抜けない』と言っていた彼女に静養が必要なのは、必然のような気がします」と沢尻エリカを気遣っています。


                      「だけどもしこの映画が当たらなかったら? 客席がガラガラだったら、あたしはどうなるの?」。沢尻エリカはそんな不安のまっただなかなのかもしれません。芸能界トップスターだけど実は全身整形。これは演じていて相当にストレスが溜まる役のはずです。役作りすればするほど精神が追い込まれていきそうです。考えようによっては、芸能人にとってこれほどの汚れ役もありません。これなら娼婦や連続殺人犯を演じる方が、まだ現実と虚構がハッキリ違うので気がラクなのではないでしょうか。


                      この映画が、面白い映画なのかどうか、まだ見ていないのでわかりません。もしかすると、フォトグラファー蜷川美花が指揮した極彩色の映像こそ美しいものの、脚本がまるでダメで、沢尻エリカはただギャーギャーさわいでいるだけという、最悪のパターンかもしれません。


                      それでも村中はこの映画が楽しみです。俳優の現実生活と、映画の内容がこれほど鮮やかに重なり合う例は滅多にありません。これでもし脚本が良いならば、とても素晴らしい映画体験になるでしょう。つい期待してしまいます。


                      この映画のキャッチコピーは「見たいものを見せてあげる」でした。その言葉に応え、いち観客として、この見せ物を、映画館でゆったり鑑賞したいと思います。


                      映画、ヘルタースケルターは7月14日公開です

                      ※ 公式サイト
                      http://hs-movie.com/index.html



                      calendar

                      S M T W T F S
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      252627282930 
                      << November 2018 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      profile

                      links

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM

                      e