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アキレスがカメを追い越せないなんてあり得ないと理解する方法

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    ■ アキレスはカメを追い越せない?


    みなさんゼノンの逆理というのを聞いたことがありますでしょうか。


    俊足のアキレスが、目の前をのろのろ走るカメを追い抜こうとするが、それは絶対に不可能なことなのだ、なぜならば…とつづくアレです。


    (図解)
    http://www.think-d.org/brain/?%A5%A2%A5%AD%A5%EC%A5%B9%A4%C8%B5%B5%A4%CE%A5%D1%A5%E9%A5%C9%A5%C3%A5%AF%A5%B9


    もちろん、現実世界で、人がカメを追い抜けないなどということがあるわけがありません。わたしもあなたもタッタッと歩けば、カメなどひと抜きです。


    しかし、ゼノンの論法で考えると、何だかどうしても抜けないような気がするのですね。


    村中がこの逆理を知ったのは、中学生の頃で、どう考えても反論できないのでたいへんイライラしました。納得いかーん。


    イライラしているのは、かつての村中だけではないようで、今なお、Yahoo質問箱や教えてgooでも、「教えてくれ〜」という書込が入ります。


    http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1219652.html


    ■ 哲学への興味、そして疑問(何か適当なこと言ってわしを誤魔化そうとしてないか?)

    それから哲学に興味を持つようになり、大学の頃に、「西洋哲学史」なんて一生懸命読んでみたりしました。良くあるパターンですね。若い頃は、哲学的な単語、「一と多」、「純粋経験」、「イデア」、「近代の超克」、「絶対矛盾的自己同一」などなどに美を感じる時期もあるものです。


    しかし、社会人になる頃から、どうも哲学というのは、言葉には独特の雰囲気があって美的ではあるけれど、しかし言っている内容というのは、いくら読んでも良く分からない、真面目に考えれば考えるほど良く分からなくなってくる、むろん素晴らしく頭のいい人が素晴らしくよく考えた研究成果だから、つつしんで拝読する他はないが、でも、中には、雰囲気だけで適当なこと書いてる人もいるんじゃねーの、と。


    おそらく社会人になって、「本に書いてある立派なことも、往々にして著者の自己顕示欲と虚仮威しである」ということが実感できてきたのでこういうことを思うようになったのかもしれません。「もう哲学にはケムにまかれたくないな」と。


    ■  1+1はなぜ2なのか?がまともに書いてある本。


    そんなとき出会った一冊が数学エッセイ「無限の果てに何があるか(足立恒雄 著)」でした。


    この本は、数学の基本的な考え方、思想を記した本です。カッパブックスという一般人向けの新書シリーズの中で出された本ですが、内容は本格的です。著者自身、「たとえ話とイメージで逃げるようなことはしていない」という趣旨のことを語っています。


    目次がすごい。たとえば「1+1はなぜ2なのか?」で50ページ近く語られています。一般人なら、「1+1がなぜ2かって、そんなの当たり前だろ」で片づけてしまうところですが、この本では、それが「なぜ」、2なのかを証明(※ 正確には、最小限の定義、公理から「構築」)していくのです。


    村中はこの本を読んで、はじめて1+1がなぜ2なのかが分かった気がしました。「1は単位であり数ではない。2は多の最小数である」みたいな分かったような分からない話と違って、読んでいくと、本当に1+1が2である理由が分かってくるのです。


    しかし、これを分かるには、数学的世界に自己の波長を合わせねばなりません。しかし、そのチューニングを一般人が一人でやるのはたぶん無理です。名人のガイドなくしては、数学の世界観に没入できません。


    そのガイドをしてくれるのが足立先生の書いた「無限の果てに何があるか」です。


    その他、この本を読むと、「平行線が交わってもぜんぜん問題ないことの理由」、「無限というのはつまり何なのか?」、「同じ無限でも『大小』がある」など興味深いことが真に理解できます。


    「イメージや例え話でわかったつもり」ではなく「本当に理解したい人」には最適の内容です。


    こんな素晴らしい本なのに残念ながら絶版。でもアマゾンでは1円で売っていますから、まずは騙されたと思って買うのがよいと思います。


    ■ ゼノンのパラドックスはとっくに解決されている


    そして、その足立先生の最新刊が、「数学から社会へ、社会から数学へ」というエッセイ集です。


    足立先生は、冒頭触れたゼノンの逆理について、「定義について」というエッセイの中で、「こんなものは数学界ではとっくの昔にケリがついている。にも関わらず日本では、現代においても、いまだにゼノンの逆理についての論文(?)が発表されている。まことに恐縮だが、哲学のみなさんにはあなたあほですかと言いたい」という趣旨のことを言っています(※ あくまで「趣旨」です。こう書いてあるわけではありません)。


    批判対象は具体的で、たとえば哲学の重鎮とされる大森庄藏氏の「ゼノンの逆理と現代科学」という文を引用しています。


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    結局アキレスとカメの逆理は二分割と呼ばれるもう一つの逆理と同じ構造であって、ゼノンの逆理の確信は無限の中間点を通過できないから目標点に到達できないということである。つまり「無限」という概念の意味からして次々と無限の点を通過し終える運動は不可能だというのがゼノンの逆理の骨格なのである。


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    昔の村中なら、へへー、そうでございますかと謹んで拝読していたような文章ですが、足立先生はこれに対し、「こんな『酔っぱらいのタワゴト』が論文になるくらいなのだから、哲学というのもずいぶんとでたらめの世界なのだね、と言いたい」とバッサリ。


    もちろん、その後には根拠が示されます。


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    「無限の点を通過することは無限という概念の意味からして不可能である」と書かれているが、「通過し終えることができない」というのを無限の定義、あるいは性質とするのはギリシア時代ではそうだったのかもしれないが、現代数学ではまったく違う。
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    これはなかなか手厳しいひとことで、要するに「ギリシャ時代に提出された問題を、ギリシャ時代の思考の枠組みで分析しているようでは、進歩がなさすぎる。数学はすでに十分に発達して、今や逆理を逆理でなくす発想を獲得している。それを踏まえることもなく、言葉を弄んでも無意味である」と言っているわけですね。


    (※ ここでは省略しますが、エッセイ文中では、ゼノンの逆理に対する数学的回答が明確に書かれています)




    ■ 定義だけで構成された透明な世界


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    たとえばデデキントに従えば、集合XはXからXへの全射でない単射が存在するとき無限である、と定義される。ここには「無限の点を通過する」というような


    ナイーブな言葉は出てこない。そもそも「通過する」とはどういうことを意味しているつもりなのだろうか? 数学はすべて定義から始まる。自然言語を恣意的に使って数学、あるいは数学のモデルの問題を論じるのはきわめて危険である。


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    文中に、「数学はすべて定義から始まる」という言葉があります。数学の、その徹頭徹尾合理的であるにもかかわらず、一般人にはきわめて異質な思想の根本にあるのが、この「数学はすべて定義から始まる」という一語であるように思います。


    ■ 平行線が交わっても、四次元や89次元の世界があってもぜんぜんかまわない。


    数学の世界では一般人の一般感覚では理解しがたい言明が連発されます。「平行線が交わる(んなわけーねだろ)」、「平行線は1本だけでなく無限にある(ありえねー)」のように。


    中学生の頃の村中は「あのさ、平行線というのは交わらないから平行線っていうんだよ。交わったら平行線って言わないの」と言いたくなりました。


    しかし、今では、感覚が変わりました。「交わらないものを平行線とするのも一つの定義だが、平行線を交わるとしてもその他の定義と矛盾はない。だったら、平行線が交わるという世界があっても、ぜんぜん問題はない」と。




    それ以外にも昔は村中には四次元というものがさっぱりわかりませんでした。えー、だってこの世は、縦・横・高さの3次元でしょ。何で4つ目が出て来るのよ、この世は四次元てどういうことよと不思議でした。実際、SF映画や漫画でも「四次元世界からヤプール人」のように、四次元というのはオカルト、ミステリー、人知の及ばない不思議なものとして扱われていたように思います。


    しかし、最近は「何かを特定するのに変数が3つじゃ足りなくて4つ必要だというだけの話でしょ」と思えるようになりました。ぜんぜん人知が及びます。この感覚なら、5次元でも、19次元でも、20134次元でもまったく問題ありません。


    「3次元」という概念を、縦、横、高さという自然言語を使って理解することをやめてみたら、頭がスッキリして、何の矛盾もなくなったというわけです。


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    数学的なセンスというのは、論理的に厳密に考えられる、ということでもなければ、とっぴなアイディアが出せるということでもない。それは、いま言った「矛盾しなければ存在するとしても、ちっともかまわない」という基本思想が身についているかどうかだけだろう。この思想こそが思惟だけの学問である数学と、しがみつかねばならない対象(物理なら自然現象)を持った学問とを区切っている、大きなちがいである


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    「矛盾しなければ存在するとしても、ちっともかまわない」というこの感覚が身についたのは、数学の本を読み続けて得られた、新しい世界でした。とても自由な世界です。


    数学の異質な世界を、おためごかしではなく本格的に理解させてくれる足立先生の各著作。


    その異質な世界にいきなり本格的に没入したいのなら、「無限の果てに何があるか」をおすすめします。




    いや、まずは現実世界と連関させて、その感覚をまずは一口味わいたいというのであれば、「数学者の目で世相を観る」と副題のある最新刊、「数学から社会へ、社会から数学へ」をおすすめします。



    TVドラマ「半沢直樹」の美術について

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      話題のテレビドラマ、半沢直樹を昨日はじめてみました。途中から見たので筋はあんまりわかりませんでしたが、それでも見た瞬間、おお、映像がしっかりしている、これがんばって作ってるドラマだなと思いました。

      美術さんががんばってます。
      半沢直樹のネクタイの色はいつも黒または濃紺。敵役の金融庁のボスは、鮮やかな赤。そして、半沢直樹の相棒の少しおちゃらけた及川光博は、小さい水玉の紫、さらには携帯電話も光沢ある紫でした。

      画面は、大銀行の重厚感が出せるよう、奥行きを効かせた左右対称の構図が多い。画面上には、東京中央銀行のカラーである赤が刺激を与えるほかは、無駄な色はなるべく使わないようにしています。仕事部屋の片隅のファイル一つまで、無駄な色、無意味な色にしないよう、気を遣っています。

      ジブリの鈴木敏夫さんでしたか、「美術が映画の風格を決める」と言っていましたが、そのとおりだと思いました。

      そして、このドラマを見て、さらに思ったことは、「美術は、役者の演技を際立たせるためにある」ということでした。

      半沢直樹は、主人公を演じる堺雅人をはじめ、俳優の演技が見所になっているテレビドラマです。悪役の香川照之は、顔の輪郭からして既に悪役というかんじですが、あれ、わざと顔を太らせたのでしょうか、あるいはゴッドファーザーでマーロンブランドがそうしたように、口の中に綿でも入れているのでしょうか。またもう一人の適役、片岡愛之助演じる金融庁検査官のボスも、役人なのにオカマっぽいというのは、あれは元々の脚本設定なのでしょうか、それとも俳優本人のアイディアなのでしょうか、そのエキセントリックな台詞回しは、深刻になりがちなドラマの中におかしみを与えていますし、また悪役キャラが香川照之とダブってないのも良いです。あと倍賞美津子の、必要以上に目尻のしわを強調した妖婆メークも、ドラマにエグ味を加えています。

      「半沢直樹」は会社内の抗争を描いた群像劇なので、ドラマの筋を視聴者に説明するために、殺人場面とか、アクションシーンとか、海辺の岸壁で犯人は私ですと告白するとか、2時間ドラマでよく出てくるような安直な小道具が使えません。

      しかし、「半沢直樹」は、途中から初めて見た私にも何となく筋立てというか、今、画面で何が起きているのかはよくわかりました。何によってわかるかというと、堺雅人が思わせぶりに机の携帯電話をじっと見たり、香川照之が目は動かさずに右耳の後ろだけを動かしたり、滝藤賢一が額に逆八の字のシワを寄せたり、その他の及川光博や吉田鋼太郎や森田順平が、いちいち顔や目線でもって、今ストーリーがどうなっているかを表現しているからです。

      そしてこのドラマでは美術や映像や照明が、その俳優たちの演技が際立つよう、美術だけ映像だけ出しゃばらないよう、俳優を主役にするようにアシストしてくれるわけです。

      これは、俳優としては、やる気がでると思いますよ。

      美術ばっかり映像ばっかり先走って、俳優の演技の方はただわめくだけ泣くだけ高笑いするだけで、肝心の話の筋がさっぱりわからなくて失敗したのが2011年のNHK大河ドラマ、平清盛でした。


      やっぱりドラマは、俳優の演技に注目して味わいたい。俳優が良い演技をする。美術や映像がさらにそれを引き立てる。だから俳優がもっとノッてくる。脚本というゲームプランに則りながら、映像や美術がパスを回し、それを受けた俳優がシュートを決める、そんな作りになっている「半沢直樹」はいいドラマだなあと昨日思いました。

      「ごちそうさまを英語で言えますか?」

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         「ごちそうさまを英語で言えますか?」という本を見かけました。

        この問いかけに対する村中の考えは次のとおりです。


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        ***1: 英語で言う必要はない。外国でも堂々と日本語で「ごちそうさま」といえばよい。

        たとえ外国人との会食で会っても食べ終わったら、

        オリンピックの最終プレゼンで滝川クリステルが手を合わせて「おもてなし」と言っていたのを思い出して、

        上品に手を合わせて、

        「ごちそうさま」と日本語でいえばよいと思います。

        外国の人にも意図は伝わるでしょう。場の雰囲気を崩すこともないと思います。

        「今のは何て言ったのですか」と質問されたら、I said thanks to the meal and people who cooked it. (今いただいたお食事と、そのお食事を作ってくださった方に、感謝を述べました)(※)とでも答えれば、感じがいいのではないでしょうか。

        言葉というのは、コミュニケーションの道具なので、正しく言うことよりも、相手に気持ち、意図が伝わることの方がだいじです。

        逆にいえば、気持ちや意図さえ伝わるなら、別に外国語を使う必要はありません。

        村中は、海外旅行するときに、Thank youなど感謝の意を伝えなければいけないときは、「ありがとうございました。サンキュー」、「ありがとうございました。メルシーボクー」、「ありがとうございました。謝謝」、「ありがとうございました。スバシーバ」のように、最初は日本語で言って、次は現地の言葉で言うようにしています。

        これが、いちばん気持ちが伝わるような気がするんですよね。


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        ***2:まわりを見て、まわりがやることをマネすればよい。

        「わたしは、それでも”ごちそうさま”を英語で言いたい」という場合は、外国人と会食するときに、まわりの外国人が食事のあと、何を言うかに聞き耳を立てて、次からはそれをマネすればよいと思います。

        これは私たちが日常生活でやっていることで、冠婚葬祭でしきたりが分からなければ、とりあえず回りのやるとおりにやっていればとりあえずだいじょうぶというのと同じです。

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        以上で言いたいことは、事前に「ごちそうさまを英語で言えますか?」のような本を読んで勉強する必要は別にないということでもあります。


        ※ ちなみに「いただきます」を英語で解説したい場合は、
        I said thanks in advance to the meal and people who cooked it. (これからいただくお食事と、そのお食事を作ってくださった方に、あらかじめ感謝を述べました)とでも言えば、説明がラクだと思います。

        ググっても決して知ることができないノウハウ

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           インターネット時代になると、誰かがいいアイディアを思いつくと、それがネットにアップされるので、たいていのことはググれば何とかなります。

          しかし、そうした形での共有化(みんなのもの化)が決して進まない分野として、「パスワードの上手い付け方」という知識があります。

          いま、パスワードの付け方について、

          - 覚えやすく
          - メモする必要も無く、
          - 忘れにくく
          - 忘れてはならないという自然な心的プレッシャーがかかり、
          - しかし、もし忘れたときでも自分で簡単に調べることができるが、
          - だがしかし、悪意を持つ他人が調査しようとしても、たぶん無理

          というなかなか良いアイディアが思い浮かんだのですが、

          それはやっぱりここには書けません。

          いや、もったいぶっているわけではないのですが、だって、書いたらバレちゃって、ノウハウにならないですから。


          東京の高所

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             村中は、三鷹市の玉川上水沿いに住んでいます。ここらあたりは「三鷹台」の地名のとおり、武蔵野台地というやや高いところから、そのまた台地ができている場所なのですが、今日、東京の地形図の本を読んだところ、武蔵野台地で、そうした「台地の上のそのまた台地」があるのは、三鷹台近辺だけだということがわかりました。三鷹台の最高地には牟礼神明神社がありますが、あれは東京でも屈指の高所なのですね。なんだか気分がよくなりました。、

            密室の恋愛映画をスタンリーキューブリックのホラー映画の文法で撮ったらこうなった 〜 『シャネル&ストラヴィンスキー』

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              ちがうものとちがうものを掛け合わせると新しい物ができます。
              オシャレと恋愛と芸術とホラーとパンフォーカスを混ぜるとこうなるという映画を観ました。


              20世紀初頭の有名服飾家ココ・シャネルと前衛作曲家イゴール・ストラヴンスキーの不倫愛を描いた、『シャネル&ストラヴィンスキー』という映画です。

              黒と白のモノトーンを基調にしたシャネルの別荘をはじめ、大変に美麗なセットを、ゆっくりとロールするカメラワークで撮っていく美しい映像が特徴の映画です。

              映画前半では、シャネルが「わたしの別荘に来て作曲に打ち込めばいい」と口説いて、結局、ストラヴィンスキー夫妻と四人の子供達を、別荘に招きいれて、住まわせます。この時点では、シャネルとストラヴィンスキーはまだ関係していません。

              ここから、観客は、奥さんが一つ屋根の下に住んでいるのに、いったいいつどうやって関係が発生するのかとハラハラしながら見守るわけですが、その過程を描く前半1時間のカメラワークや編集は、無人の廊下を静かにカメラがクローズアップしていったり、完全にホラー映画のそれでした。

              シャネルとストラヴィンスキーのただならぬ関係に気づいた奥さんが途中から、静かな生き霊のように変化していきます。郊外にある広大な別荘に閉じ込められたままストーリーが進むところとか、ブランコに乗った子供が静止して正面を向いているカットとかは、うわあ、これじゃ、スタンリーキューブリックのシャイニングではないかと思いました。

              シャイニングは、広大な別荘の中で、芸術家の夫であるジャックニコルソンが、別荘に潜む魔性に魅入られていき、妻がそれに抗う話でした。

              このシャネル&ストラヴィンスキーは、芸術家の夫であるストラヴィンスキーが、別荘に潜むココシャネルの魔性に魅入られて、それに妻が抗う話なので、ストーリーの構造が同じです。
              超怖いシャイニングのシーン(グロはありません)





























              (↓ こちらは、シャネル&ストラヴィンスキーの中の「生き霊と化していく奥様」です)


              監督のヤンクーネンがこの映画を撮るにあたり、いろいろな点でスタンリーキューブリックを意識していることはまず間違いないと思います。

              このカットとか照明のかんじがキューブリックぽいです。




              この辺のカットもキューブリックぽい。とくに右下とか。

              この映画の後半で、シャネルの部屋が写ったときは、「あ、2001年宇宙の旅の『あの部屋』だ!」と思いました。

              (2001年宇宙の旅の「あの部屋」)


              この映画は、ココシャネルとイーゴルストラヴィンスキーという実在の人物を使っているだけに、脚本に自由度はありません。ストーリーそのものは何ということもありません。ただただ雰囲気を楽しむ映画です。

              村中としては、アールデコと不倫とオシャレとシャイニングと2001年宇宙の旅を混ぜるとこうなるんだなあと興味深く見ました。

              ※ 以下、シャイニングと、シャネル&ストラヴィンスキーの予告編を並べときます。予告編だけだと何が似ているのか良く分からないかも知れませんが、本編を見比べると、けっこう共通点が良く分かると思います。


              シャネル&ストラヴィンスキー 予告編

              シャイニング 予告編1: 「世界一怖い予告編」として有名。 http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=Str81Wp_VI8



              シャイニング予告編2:

              ※ シャイニング、また観たくなりました。これは絶対ブルーレイの透き通ったキレイな映像で観たいです。

              音を聞くために映画館で見たい映画 〜 舟を編む

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                 スタジオジブリの宮崎駿は昭和30年代を舞台にしたアニメを作りたいと考えたことがあったそうですが、「生活音」の再現が不可能なので企画を断念したそうです。

                生活音とは、包丁のトントン音や、自転車のキイキイ音、襖の開け閉め音など、生活の中で発生する音のことです。



                宮崎監督のこだわりからも、生活音が、アニメや映画のリアリティを確保する上で、いかに重要な役割を担っているかが分かります。



                先日、その生活音がいい感じだなあと思える映画を見ました。石井裕也監督の「舟を編む」と見に行きました。



                これは、見出し語24万語の辞書「大渡海」を、完成まで15年をかけて作っていく話で、原作は、2012年に本屋大賞第一位となった三浦しをんの同名小説です。



                主人公は、無口で真面目な変わり者、馬締光也(まじめみつや)に松田龍平。彼が恋する女性が宮崎あおい、辞書編集部のお調子者社員にオダギリジョーという配役です。



                映画全体は、とても「うすあじの映画」だと思いました。話は単なる辞書作りなので、波瀾万丈のドラマはありません。たいした事件も起きません。そういう、絵が作りにくい、観客を引っ張りにくい映画なので、石井監督がその辺をどう料理するのだろうと注目して見ました。



                映画ぜんたいはとても静かです。そもそも主人公の松田龍平が「無口」という設定になっているので、セリフがほとんどありません。



                絵もない、ドラマもない、セリフも少ない。そんなお話なのに、楽しく映画が観られる。映画の雰囲気の中に引き込まれて、その世界の中で、しあわせを感じることができる。



                その理由の一つが、ていねいな「生活音」だなと思ったのです。



                宮崎あおいは、映画の中では女板前、かぐやさんという設定ですが、そのかぐやさんが、星雲荘の台所で、仕事で使う包丁をていねいに研ぐ音、刺身を静かに切る音、こんにゃくを切る音など、いい音だなあと思いました。



                また辞書編集室の中で松田龍平が紙をめくる音、立ち上がる音、椅子の上で姿勢を変える音など、その音があるからかえって編集室の静けさが引き立っていました。



                「古池やかわず飛び込む水の音」という俳句では、一匹のかえるが飛び込む「水の音」があるからかえって、古池の静けさが際立ちます。



                同じように、この映画のうすあじ感を確保していたのは、全編にわたり、かすかに響く、生活音の数々でした。



                味噌汁や煮染めの味を決めるのはダシです。良いダシを使えば、料理全体に味が染みわたって、なんだかわからないけど、しみじみ美味しいというように、味が底上げされます。



                この映画では生活音がダシだと思いました。音に対し、細心の注意を払って作った映画です。そうでないと「包丁でこんにゃくを切る音」なんて聞かせるはずがありませんから。



                この映画は音響の良い映画館で見て本当によかったです。静かな映画館だからこそ、細かい生活音がよく聞き取れました。家でDVDなどで見たのでは、自分自身の生活音が邪魔をして、映画の世界に入れなかったことでしょう。

                この映画は、音を聞くために、映画館で見るべき映画だと思います。

                ※ 「船を編む」ホームページ http://fune-amu.com/
                ※  ホームページによれば、録音は、加藤大和さんでした。しかし、映画のエンディングクレジットでは、音響効果として別のどなたかもクレジットされていました。生活音を担当したのはどちらなのか、知りたいところです。

                 


                高倉健は、数字を使った表現が上手い

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                   文章術として、よく言われるのが「数字を使って具体的に表現しましょう」という手法です。


                  「今、売れています」よりも「一日50個以上、売れています」

                  の方が現実感があるとされています。



                  最近、見た数字を使った文章術でいちばんお見事と思ったのは、映画「八甲田山」の撮影が、いかに過酷なものだったかを語る、高倉健のインタビューです。


                  「あれ(『八甲田山』 一九七七年)のときはもう、仕事を通り越してました。三年の間、コマーシャルもやらなかったしい、雑誌のインタビューにも出なかった。あれ一本にかかりきりでした。史実では、弘前連隊の三八人は、一一日間の予定が大暴風雪で延びて一二日間の雪中行軍だったんですが、演じたほうの僕らは計一八五日間も雪のなかにいたんです」


                  「12日間、雪の中で遭難した話」を演じるのに、自分たちは「185日間、雪のなかにいた」といっています。数字を使って状況を伝えることのお手本のような文章です。


                  次の文章も、対比による説明がすばらしい。


                  「自衛隊は、今でも八甲田山でその時期に雪中訓練をやってるんですが、昔と違って、今は雪上車でダーッと山に登って、重油ストーブをばんばん燃やしてるから、Tシャツ一枚でやってますよ。ところが、僕らは明治時代の服装でロケやったでしょう。自衛隊の人たちが呆れて見てましたね」


                  なんだか自衛隊員というサバイバルのプロが甘えん坊のように見えてきます。すごい言い方だと思いました。

                   


                  「10円しかない」について

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                     「日本人が知らない日本語」や「出来る大人の物の言い方」や四文字熟語や故事成語や名言、格言よりも、村中が知りたいのは、日本語の「しくみ」です。



                    たとえば「〜しかない」という言葉。


                    「10円しかない」は、「ない」と言っていますが、実際は「10円だけある」です。


                    「10円がない」なら、文字通り、10円がないという意味なのに、「が」が「しか」になると、なぜ10円だけあるという意味になるのでしょうか。


                    英語にもnothing but 〜 という言い方がありますが、こちらは仕組みが分かります。butは「以外に〜」という意味があるので、nothing but A は、何もない(nothing )、ただしA以外には(but A)ということで、つまり「Aだけある」となります。


                    anything but Aなら、何でもある(anything) ただしA以外には(but A)といことで、つまり「Aだけない」という意味になります。


                    日本語の「10円しかない」も、これと同じように「しくみ」で理解したい。


                    しかし辞書を見ても「しか 〜 係助詞。(あとに打ち消しを伴って)それと限る意を表す」としか書いてありません。こちらが知りたいのは、そういう説明ではなく、「なぜそうなるか」という「しくみ」「動作原理」です。

                    どなたかご存じの方がいれば教えてください。

                     

                     


                    山下和美 「不思議な少年」

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                       山下和美の漫画、「不思議な少年」を読んでいます。いま3巻まで読みましたが、既刊は8巻なのでまだ5巻あり、楽しみが続くのでうれしいです。

                      「不思議な少年」は、1話100ページ程度のオムニバス作品です。永遠の命を持つ「不思議な少年」が、あらゆる時代とあらゆる場所を訪れ、話ごとの主人公となる「人間たち」を興味深く見守ります。多くの話では、主人公の「人間」の一生、つまり生まれてから死ぬまでの物語が展開されます。

                      人の一生を100ページかく話は、大河ドラマになりがちです。出会いと別れ、絶望、逆境、復活、そしてハッピーエンドというように。そうしないとストーリーがなかなか成り立ちません。

                      しかし「不思議な少年」は、どの話もあまりドラマチックでないのが特徴です。読者は、主人公に感情移入できるようなできないような、微妙な話ばかりが続きます。

                      山下和美さんは、大河ドラマではない人の一生を描きたいのだと思いました。人の一生はあんまりドラマチックではありません。そういうたくさんの一生が読める作品集です。8巻まで読むのが楽しみです。




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