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僭越ながら起業のアドバイスを一つ。

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    弊社カスタマワイズは今年で設立11年目となりました。一応、10年は超えたということで、たいへんえらそうな話で恐縮ですが、これから起業したいと考えているみなさんに一個だけアドバイスしてみたいと思います。

    起業のアドバイスというと、初期投資が少ないビジネスが良いとか粗利率が高い商品が良いとかいろいろありますが、村中としてオススメしたいのは、

    「法人向けビジネス(BtoB)がいいですよ」

    ということです。なぜBtoBが良いかというと、いざとなったら顧客に直接営業できるからです。

    思い起こせば11年前、カスタマワイズ設立当初は、ぜんぜん売れんかったんですけど、それでどうしたかというと、色々なIT会社に飛び込み電話で営業して、何とか会ってもらい、訪問してサービス内容を説明し、よろしければお買い上げくださいと頭を下げて注文をいただきました。営業トークでは、地に足のついた印象になるよう、小さい声で喋るよう気をつけました。営業は未経験だったのでたいへん下手だったと思いますが、何とか売れました。

    わたしは当時しみじみ思いました。ああ、法人営業でよかったなあと。これが飲食店とか雑貨店とかカフェとかで一般消費者向けの路面店で開業していたら、立ち上がりでお客が来なかったらそれで一巻の終わりだよなあと。まさか、道を歩いている人に直接声をかけてウチの店に来てくださいと頼むわけにもいきません。できることといえば、せいぜいビラを撒くぐらい。あるいは路上で呼び込みするぐらい。でも、それって効果なさそうだし、一発逆転なんてのはマンガの仲だけの話で、実際はそのままジリ貧で廃業に追い込まれる可能性が高い。高い確率で借金も残るでしょうし。

    その点、法人向けビジネスというのは、売上げが上がらないのであれば、いきなり相手の会社に電話して営業することが可能なわけです。これはラクですよね。

    というわけで村中がオススメしたい起業のポイントは、「BtoBがいいですよ。いざというときに『営業』が可能ですから」ということでした。、


    (※ ここでの「起業」とは、何十億、何百億円を狙うようなスゴイ話とは別の、村中がカスタマワイズでやっているぐらいの規模の経営で御解釈ください)












    マリンスキー、お能、新国立劇場バレエ団

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      こなれた日本語の書き方

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         いわゆる「こなれた日本語」の書き方ですが、それは一言でいえば、「動詞中心で文章を組み立てる」ということだと思います。


        たとえばDone is better than perfect のような意味を伝えたい場合、

        「完了は完璧に優る」と書くのが名詞的な文章の組み立て
        「完璧を目指すより、まず終わらせろ」と書くのが動詞的な文章の組み立てです。

        Mary looks prettier with her hair cut short.という意味を伝えたい場合でも、
        「メアリは短髪の方が可愛い」よりも、
        「髪を切ったらメアリは可愛くなった」とした方が、雰囲気がよく伝わります。
        日本語というのは、「動詞にすべてがくっつく言語だ」という説もあるほどです。
        (※ 「日本人のための日本語文法入門」 http://amzn.to/1wOOntp

        (※ ちなみに今書いた、<< 日本語というのは、「動詞にすべてがくっつく言語だ」という説もあるほどです >> というのは、名詞的な文章ですが、村中はこういう場合、長ったらしい名詞節は、<< 「動詞にすべてがくっつく言語だ」 >> のように「」で括ることを好みます。その方が単語同士の掛かりが明確になる気がするので)

        以下は、最近、カスタマワイズの制作者の文章を添削した際の例です。

        (添削前: 文章が名詞的)
        '---------------------------------------------------------------
        元来、【不動産資産の土地活用の営業】においては、【営業マンから地主さまへの直接営業】がメインですが、【時代や相続をされる対象の方】も変わってきているため、【従来の方法】だけではなく、【WEBでの集客】も【重要度】が増してきました。

        ---------------------------------------------------------------
        元来、【A】においては、【B】がメインですが、【C】も変わってきているため、【C'】だけではなく、【E】も【F】が増してきました。

        ---------------------------------------------------------------
                   ↓ ↓ ↓

        (添削後: 動詞的な文章に変えてみた)
        ---------------------------------------------------------------
        【弊社のような不動産会社】が【地主さま】に【土地活用をすすめる】とき、通常は【営業マン】が【直接対面してご案内】します。従来はこれが【主流の方法】でした。しかし、最近は【時代の流れ】も、また【被相続人の好み】も【変わって】きました。お客様には、【直接対面】だけでなく、【WEB】を通じても【ご案内】する必要があります。
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        【A】が【B】に【C】するとき、通常は【D】が【E】します。従来はこれが【F】でした。しかし、【G】も、また【H】も【I】してきました。お客様には、【J】だけでなく、【K】を通じても【L】する必要があります。
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        なお、文章を「書くとき」には、名詞的な文章の方が、書くのが簡単です。しかも、漢字を多くすれば、「なんとなくご立派そうに見える」という余録もついてきます。

        しかし、読みやすいのは、動詞的な文章の方です。動詞的な文章は、やってみれば分かりますが、書くのは、けっこく大変です。

        つまり、名詞的な文章は、書き手に優しく、読み手に厳しい。
        一方、動詞的な文章は、書き手に厳しく、読み手に優しい、
        というわけです。

        カスタマワイズは、文章を書いてお金をもらう「文章の外食産業」なので、やはり、動詞的なこなれた日本語を書くようつとめるべきです。

        衣食住ビジネス雑感

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           いま、中国産鶏肉のことが大きな問題となっており、それを扱っている各社が販売中止や謝罪を含め、さまざまな対応をしていますが、その様子を、スケールの大小にはありえないほど差があるとはいえ、「社長」というカテゴリーで強引に引き括ってしまえば、わしとて中小企業のおやじだけどでも社長やでというということにして、あらためて見てみるにつけ、「いやあ、口に入れるモノを扱う商売は本当に大変だなあ」と思いました。

          衣食住そして移動など人間の基本的欲求、必要を販売するビジネスは、普遍性が高いぶん、ビッグビジネスになりますが、その普遍性が高い部分、今回のようなリスクも高まります。食品であれば、食の安全・安心。住宅であれば耐震性、耐久性、シックハウス問題など。家具、寝具であれば同様に耐久性。自動車、鉄道など移動であれば、運行の安全性…。

          そうしたリスクを抱える中で、今回のような事態が発生すると、謝罪、リコール、返金、賠償など、様々な形で対応しなければいけません。

          と、ここまで書いてふと思ったのですが、衣食住、移動のうち、「衣」だけは、あんまりそういうリスクがなさそうです。

          私の知る限りではですが、衣料ビジネスで、安全性に関する騒動が起きたということは記憶にありません。

          衣料が原因で、顧客の身体、生命に害や危険が及ぶ事態はちょっと想像しにくい。

          これは、衣料ビジネスの隠れたアドバンテージかもしれないとふと思いました。


          メジャー

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             いま、某有名経済情報サイトを見ていたら、大学教授が、大手企業の経営方針を論評する記事が載っており、次のようなことが書いてありました。

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            ○○教授は「4つのM」を掲げる。(1)Major(モノサシ)=資本コストを常に意識すること、(2)Management=投資などの意思決定は資本コストを上回る案件に絞れ、(3)Motivation=従業員には賃金で報いよ、(4)Mind Set=資本家層との意識を従業員と共有せよ――という。
            ---------------------------------------------------------------

            Majorは、「メジャーvsマイナー」、「メジャーリーグ(大リーグ)」 などで使われるように、「大きい」という意味の単語であり、モノサシの意味はありません。

            モノサシを表すメジャーは、「計測するもの」なので、measurer となります。

            「4つのM」と大上段に振りかぶりながらも、これはけっこう恥ずかしい間違いだと思いました。


            ブラジルの「あのサッカー」がなくなったら寂しい

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               村中は、サッカーについては、つい最近やっと見方が分かり、0-0でも何とか楽しめるようになった程度の、「にわかファン」ですが、それでも今回のワールドカップで、ブラジルがドイツに7-1で惨敗したことにはショックを感じました。

              いくら攻撃と守備の主力を欠いているとはいえ、あのブラジルが、6分間で4点も失点していく様を見て、茫然自失としました。

              ブラジルといえば、自然児がラテンのリズムに乗って、ヘラヘラ笑いながら、次々に華麗なゴールを決めていく、ナチュラルサッカーが魅力でした(今は、過去形で書かなければいけないのが悲しい)。


              ブラジル代表はこれからどうなるのでしょうか。もちろん、今回の雪辱を期して、ブラジル一丸となってチームの強化に取り組むのでしょうが、もしかすると、勝利優先になるあまり、かつてあったような華麗なプレーは陰を潜めてしまうのかも知れません。

              ブラジルはまた強くなるのかもしれませんが、「あのブラジルのサッカー」は、もう見られなくなるかもしれません。

              これは相当に寂しいことです。

              何に例えればいいでしょうか。たとえば、もしこの世から「リオのカーニバル」がなくなったとしたら、一回もカーニバルを観たことがない人でも、さびしい気持ちになると思います。えー、なくなっちゃうの〜、みたいな。

              あるいは、フェラーリが、将来、経営危機に陥ったとして、そこに敏腕経営者が乗り込んで、見事に業績を回復させたはいいが、その後、発売されるのは、何にも面白くないフツーのクルマばかりということになったら、それはやっぱり寂しさを感じます。わたしは今クルマは持っていないし、将来、フェラーリを買うこともないでしょうが、やっぱり寂しく思うでしょう。これが他の自動車会社だったら、そういうことは感じませんが。

              同じように、ブラジルのサッカーがなくなることは、それは単に「ある国のサッカーが弱くなった」ということにとどまらず、「世の中から楽しいものが一つ減る」、「ジャンルの消滅」ということのような気がするのです。


              「これを超える試合はない」とまで評される、1982年ワールドカップの「ブラジル・イタリア戦」や、ロナウド、ロナウジーニョ、アドリアーノ、カカの「カルテット・マジコ(魔法の四人組)」を擁した、2006年のワールドカップのDVDなどを見ると、各選手が、ソフトなパス回しをしながら、次から次へと前線にわき出てきて、気がつくとシュートを放っている、その様は、繰り返しの鑑賞にも耐えられる、まさに「スポーツの芸術」でした。

              ブラジルといえば、どんな路地でも、子供達がストリートサッカーに興じており、それが「ジンガ」と呼ばれる、独特のリズムによるボールさばきを生み出したとのことですが、しかし、今、ブラジルでは、路地で子供達がサッカーをする様子はほとんど見かけないそうです。

              すでにサッカーは、ストリートで身につけるものではなく、養成所で学ぶものになっているそうです。良くも悪くも、ブラジルは昔よりはお金持ちの国になったのです。

              かつて日本映画には、黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男など、きら星のような名監督が素晴らしい映画を作り続けていた時期がありましたが、それは戦後まもなくの、まだテレビがなく、映画が娯楽の王様であったという、「時代の特殊条件」の賜でした。

              それと同じように、ブラジルのあの華麗で楽しいサッカーも、「1960年代〜2000年代の時期のブラジルの時代背景だけに生まれ得た、ある特殊なサッカー」として、今後は、過去の試合のDVDでしか観ることのできない、「文化遺産」になっていくのでしょうか。

              うーん、本当にどうなるんでしょう。2018年のワールドカップ、ロシア大会まで、ブラジル代表の動きはウオッチしたいと思います。

              (※ といいつつ、10月にはさっそく日本に親善試合に来るのですが)


              自分の今の価値を数字でざっくり知る方法

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                いまここに弾倉が100個空いている、リボルバー式(回転式)の銃があるとします。弾がまったく装填されていない状態で渡されたその銃に、あなたは、自分で弾を一つ装填し、こめかみに銃を当て、いわゆるロシアンルーレットに挑みます。

                成功すれば1000万円もらえ、もちろんインチキは一切ありません。

                さて、みなさんは、この賭けに挑戦しますか?


                という話が最近読んだ「東大卒ポーカー王者が教える、勝つための確率思考」という本に載っていました。

                この賭けは、これをやるかやらないかで、自分が自分の残りの命をいくらに見積もっているかが分かるとのことです。

                (※ 確率的には、この賭けを「やる」と答えた人は、自分の残り人生を1000万*100 = 10億円に見積もっていることになるそうです)

                1000万円ならやらないという人でも「じゃあ、いくらならやるか?」と自問してみれば、やはり自分の人生を見積が可能になります。

                これは、自分にとって「1000万円というお金がどれほどの大きさか」という設問だと思いました。

                もし自分が、若く、無名で、金がなく、将来の当てもなければ、「え? 1000万円! それだけのお金があれば、あれもできる、これもできる、それもできる、何でもできる。100分の99でしょ。うぅぅぅ、だいじょうぶじゃないかなぁ、うーん、うーん、うーん…、やる!」となるかもしれません。若いときは命知らずですし。

                しかし、ある程度、年を取り、先の見通しがついてくると、この賭けはやらなくなるでしょう。これは自分の命を大事にしているというよりは、「1000万円あることにより味わえる楽しみの大きさ」、「その後の自分の人生が劇的に開けていく可能性」が若い頃よりも数段、低いからです。

                いいかえるならば、若い頃は1000万円の入手にワクワク、ドキドキ、ハラハラしながら、この賭けをやり、勝って1000万円を手にすれば、うぉぉぉと思うでしょうが、壮年期になれば、そうした高揚感ではなく、うれしいとしても、もう少し現実的な感情を持つような気がします。これが大人になるということでしょうか。

                また言えば、余命1ヶ月と宣告された場合なら、この賭けは、あほらしいのでやらないでしょう。

                ちなみに、もし「人生はお金には決して替えられない」と100%信じているならば、このような賭けは掛け金がどんなに高くても決してやるはずはありません。

                「人生を数値化する」という意味では、実に上手な設問だと思いました。

                ところで、このロシアンルーレットの弾倉が10000なら、つまり、弾が出て死ぬ確率が10000分の1で、それ以外なら1000万円もらえるという賭なら、自分はやるだろうかと考えてみたのですが、

                これは、何か、さすがにやるような気がしてきました。このチャンスをみすみす逃すのはもったいないでしょ、だって弾が出る確率は10000分の1なんだし、みたいに思って。

                でも、そう思って、じゃあ、賭をやりますと宣言して、こめかみに銃を当てたその瞬間に、急にこう思ってあせるかも知れません。

                「確率は0じゃない…」

                と。





                景気対策が成功すると、景気はかえって悪くなる

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                   薄型テレビで一世を風靡した某電機メーカーは、その後、経営危機に陥り、一時は台湾メーカーの出資を仰ぐ寸前になりました。また、日本最大の電機メーカーも、数千億円単位の赤字を2年連続で計上しました。

                  一方、韓国の電機メーカー、サムスンの業績は好調です。日本の電機メーカー全ての利益を合わせたのよりもサムスンの黒字の方が大きいそうで、びっくりです。

                  なぜこんなことになったのか。多くの雑誌では、「日本の電機メーカーにグローバル戦略がなかったからだ」、「利幅の薄い薄型テレビ増産のために無理な設備投資をしたからだ」のように、多くは電機メーカーの「経営判断の誤り」「奢れる者は久しからず」という論調で語っています。

                  村中も以前はそうなのかなと思っていました。

                  しかし、経済学者、吉本佳生は、それらの理由は二次的なものでしかない。本当の理由は、薄型テレビの普及を後押しするための政府の政策、すなわち景気対策が【大成功したこと】が、その後の電機メーカーの凋落の最大の原因であるいいます。

                  これは驚きの結論です。政府が景気対策をしなかったことではなく、また景気対策に失敗したことではなく、景気対策に成功したことが危機の最大の理由だというのです。

                  実は薄型テレビは、高度経済成長期を含め、日本の電化製品の中では普及スピードが最も速かった製品でした。テレビよりも冷蔵庫よりも携帯電話よりも、薄型テレビの方がスピーディに普及したのです。

                  しかも、テレビ、冷蔵庫、携帯電話は、それまで持っていなかった物を新たに買うという形での普及でしたが、薄型テレビの場合は、すでに全家庭にブラウン管テレビが入っていたのを追い出す形での導入です。


                  この驚異的な普及スピードを支えたのが、政府による地デジ化やエコポイントなどの施策でした。アナログテレビはもうすぐ使えなくなりますよ。買い替えなさい。いま買うとエコポイントで安くなりますよ。省エネテレビに買い換えるのは環境のためにも良いことですよ。買い替えなさい。この政策のおかげで、日本の家庭にあった高品質のブラウン管テレビは、一気に薄型テレビに置き換わりました。

                  つまり、政府の景気対策は成功したのです。

                  しかし、この景気対策の大成功がが、そっくりそのまま、その後の電機メーカーの凋落の要因となったことが、吉本佳生の著書、「これから誰に売れば儲かるのか」に書いてあります。

                  大きくは、「商品の急激な普及(急激な需要増)は、必ず供給増大(設備投資)と価格競争を招く」ということです。

                  言われてみればなるほどで、急激な需要増が起きているのなら、それはもう売らなきゃ損損なので、供給を強化します。具体的には工場に設備投資します。

                  特に薄型テレビの場合は、地デジやエコポイントなどの国策支援を電気メーカーも気がついていたでしょうから、ある種の「使命感」をもって供給増の努力をしたかもしれません。つまり、みんなが薄型テレビを買おうとしているのに、店頭に商品がないのでは、自社も儲からないし、国もがっかりするわけですから。

                  しかし、同じ事は薄型テレビメーカーの全社がやりますから、全体の供給力はどんどん上がり、供給過剰になる。そうなれば当然、価格競争が始まります。

                  価格競争なんてバカなことに参加しなければいいじゃないかというのは外野の言い分で、いったん始まった価格競争からは絶対に抜けられないことが、この本では囚人のジレンマの理論を使って、精緻に論証されていました。



                  くわしくは、同書をお読みいただければかと思います。村中は、読み進めるにつれ口あんぐりになり、目から鱗が次々に落ちていきました。


                  テレビニュースで、街角で政府に期待することを聞けば、誰もが「景気対策」と答えます。アベノミクス でも3本目の矢、成長戦略が期待されています。

                  村中も以前はそういうことに期待していました。

                  しかし、今は考えが変わりました。だって、政府の景気対策が【成功すると】、景気はかえって悪くなるのですから。


                  この逆説がなぜ成り立つのかは、「これから誰に売れば儲かるのか」を読んでみてください。

                  ちなみに、普及率が急でなかったおかげで値崩れがおきなかった例として、ウオシュレットの例が挙がっていたのが興味深かったです。


                  また、この本では、題名のとおり、では今後、どの市場を狙えば成功するのかも書いてあります。また、最近、話題になっているビッグデータについては、「ビッグデータをフル活用した企業はコケる可能性が高い」など刺激的な言説もありました。

                  村中は吉本さんの本は出たら必ず買うことにしていますが、この本は、題名があまりに露骨で買いそびれていたのですが、内容はすごくいいです。ご一読をおすすめします。


                  怒りと咆吼のラブソング

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                    音楽は、小学校の頃にザ・ベストテンなど見ながら、渡辺真知子のLPをはじめて買い、中学校からはロックファンでロック一筋になり、レッドツェッペリンやルーリードやドアーズやスロビンググリッスルなど良く聞いていましたが、この年になると、音楽で何かのジャンル一筋に聞き込むということはなくなり、何でも大好きになりました。


                    そして、最近は、自分はどうも女性ボーカルの歌い上げるタイプとか音圧が強いタイプがけっこう好きらしいということがわかってきました。渡辺真知子の「ブルー」、「かもめが翔んだ日」とか大橋純子の「たそがれマイラブ」とか。


                    しかし、広瀬香美とか、八神純子の水色の雨とかドリカムとかの、「ほぉら、わたし声が出るでしょぉ」というような歌唱は少々苦手です。みずいろの雨なら、八神純子より、森昌子のカバーの方が好きです。悠然としていて。





                    女性のパワー唱法はいいですね。外国だとポインターシスターズとか(1:40 のあたりから、とんでもないことになります)


                     


                    そして最近、遅ればせながら魅了されているのがレベッカです(三日前からファンになりました)。

                    村中は何かのファンになると、自分はそれの何をいいと思っているのか、文章を書きながら考えたくなるクセがあります。すみません、それでは書いてみることにします。


                    レベッカは、NOKKOさんを中心にしたロックバンドで、80年代後半、バブルの頃に一世を風靡しました。村中はリアルタイムで経験しているはずなのですが、当時はその良さに気がつけませんでした。


                    いやあ、あらためて聞くとNOKKOさん、すごいですね。ものすごい歌唱力と音圧とパワーですね。こんなすごい歌い手だとは当時、気づいていませんでした。


                    NOKKOさんの歌唱の魅力については、ネット上で多くの人が絶賛していますが、その中で、おお、これは鋭いと思ったのが、こちらのブログです。http://www.satonao.com/cd/j_pops/rebecca.html

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                    ユーミンなんかのほうが、もちろん、完成度は高い。

                    阿木燿子はビジネスとして素晴しい出来。
                    NOKKOに一番近いタイプはドリカムの吉田美和かもしれません。


                    でも「育ちが違う」んですね。


                    吉田美和のほうが育ちがいい。NOKKOは育ちが悪い(あくまで作詞の印象のはなし)。裏道でお腹をすかせている感じがあるんです、NOKKOには。

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                    なるほど、確かにNOKKOさんほど、「いつもお腹をすかせた野良猫」のようなティーンエージャーの焦燥感を感じさせる人はいません(実際のNOKKOさんは、10歳の頃からクラシックバレエを習うなどしており、決して実際の育ちは悪くないようですが)


                    では、この方の卓見を参考にして、村中の感想を述べてみますと、


                    NOKKOさんの歌詞の魅力が「お腹をすかせた感じ」なら、
                    その歌唱の魅力は、「怒り」ではないかと。


                    この人の歌は、どんなにかわいらしい歌詞を歌うときでも、どこかに「怒り」を感じます。レコードでは、一般に受け入れられるよう洗練されていますが、ライブになると、怒りがあらわになります。というわけで、レベッカはライブの方がよく、村中は基本、ライブばかり聞いています。


                    NOKKOの魅力は「怒り」だと感じたのは、レベッカの曲の中でいちばん好きなこの「真夏の雨」のライブを聞いたときです。


                    この歌は、真夏の雨が8月の熱いアスファルトにたたきつける青春の情景を歌ったスローバラードですが、中盤から後半にかけては、歌唱というよりはむしろ咆吼。それでいて、繊細さは失わず、むしろせつなさが増していきます。音が出せる環境の人は聞いてみてください。これ、ちょっと、すごいですよ。




                    村中はこの歌を、特にレコードよりもライブの方をとても魅力的に思うのですが、ではその魅力の根源、この歌にあって他の女性歌手の歌にないものは何だろうと考えたとき、それは「怒り」ではないかと思いました。



                    この「怒り」は、松任谷由実にも吉田美和にも、他のどの歌手にも感じることができず、この時期のNOKKOだけの唯一無二のものだったと思います。

                    こちらヒット曲、LONELY BUTTERFLYはイントロも歌詞もかわいらしい歌ですが、当のNOKKOは、いったいなぜそこまでというぐらい、武道館の大観衆の前で、怒りまくっています。小さい恐竜のようだ。




                    こちら大ヒットシングルの「フレンズ」もライブの方がずっといいです。


                    こちらの野外ライブとかすごいですね。歌っている5分の間じゅうバズーカ砲をブッ放しつづけているかのようです。


                    レベッカに関心を持たないで聞くと、レコードはキンキン歌っているだけ、ライブはギャーギャーわめいているだけで、ちっとも歌が上手そうに聞こえないかもしれませんが、いやあ、こんなのNOKKO以外に絶対歌えないって。


                    ラブソングの歌唱に「怒り」の要素をいれることで、魅力的な世界を作り上げたのは、NOKKOさんだけのように思います。


                    怒りを歌で表現するのはむずかしい。怒っている人はたいてい唄が上手くないからです。声に余裕がなく、かすれて、絶叫してしまう。怒りというより、かわいそうに見えてきます。


                    また
                    いかにも恐ろしげな声は、そもそも聞き手に「怒り」を感じさせません。たとえばヘビィメタルで、男のダミ声で絶叫する「デスボイス」というのがありますが、あれは威嚇ではあっても、怒りは感じない。むしろギャグ。あれよりは、レベッカの「真夏の雨」の方が怒りを感じます。

                    暴力的な音楽というのはあります。しかし、暴力と怒りは少し違う気がする。



                    ところでさっきから怒り、怒りと書いていますが、いったい何に対する怒りなんでしょうか。


                    そのように問うならば、答えはやはり、「愛されたい怒り」、「何かを求める怒り」ということになるでしょうか。そうでないとラブソングに乗らないですし。


                    ただ「愛されたい怒り」などと書くと何だか高貴ですが、それは要するに「なんでなのよぉぉ」というあの気持ちのことです。これは凡人にも身に覚えのある感情ですが、しかし、それを「表現」に高められるのが、すごい歌手の力、歌唱力です。


                    怒りは表現方法を間違うと、とても見苦しく、聞いていて不愉快になります。怒りを美しく表現するには、膨大なテクニックが必要です。自分の感情をぶちまけても、歌が乱れない声の基礎体力が必要になる。


                    もちろんテクニックだけではだめで、歌い手の心の中に、わき上がる本当の怒りが必要です。しかし、怒りは、一生のうちでそれが持てる時期が10代から20代前半に限られている希少なものです。

                    そうした持つことも表現することも難しい感情を、すごい歌唱力と迫力で実現し、音源や映像を残してくれた歌手はNOKKO以外に思いつきません。ありがとうです。


                    身長150センチの細くて小さな女の子が、精一杯の背伸びをしながら、自分ではどうにもならない怒りを抱えて、それをすさまじい音量と音圧に乗せて、ラブソングの形で、大観衆の前で歌い上げている光景はとても魅力的に思えるのです。


                    そのNOKKOさんも今は50歳。ダンナさん、娘さんと一緒に、伊豆半島で田舎暮らしをし、すばらしい人生を送っているそうです。なるほどです。このような高純度の怒りを一生、持ち続け、表現するのは、とうぜん無理なわけですし。

                    本当に良い時に歌手になってくれて、いい映像やいい音源をたくさん残してくれたものです。天才が自分の才能を正しく使ってくれました。その意味では、NOKKOさんの才能を120%引き出してくれた作曲者の土橋さんにも感謝です。

                    --------------------------------------------------------------

                    ※ NOKKOがいかに他を圧倒する歌唱力の持ち主であったかは、こちらのブログで音楽の専門知識を持つ人が詳しく分かりやすい解説をしています。ご覧ください。
                    http://music-milk-tea.blog.so-net.ne.jp/2007-10-28?comment_success=2013-11-10T11:53:31&time=1384052011

                    主語よりも重要なもの

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                      ■ 主語と述語は近づけるべきか?

                       ベストセラーとなった『伝わる!文章力が身につく本』に、良い文章の書き方として次のような一節があります(※)。


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                      主語と述語は近づける。関係の深い言葉同士は近くに置く。

                      ++ 例:
                      証人は容疑者が店員が外の騒音に気をとたれている最中に万引きしたのを見たと言った。

                      ++ 改善例:
                      店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った。

                      ---------------------------------------------------------------

                      ※ すみません、孫引きです。
                      https://twitter.com/YuzoNito/status/333074845623533569


                      これについての村中の意見を述べます。この筆者への反対意見です。

                      この筆者は「主語と述語は近づける方が文章は分かりやすくなる」と言っています。しかし、村中は必ずしもそうは思いません。

                      まず、少なくとも、この筆者の「改善例」はあまり分かりやすくありません。もう一度、この「改善例」を掲載します。いかがですか、この文章、分かりやすいでしょうか。

                      ---------------------------------------------------------------

                      「店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った」

                      ---------------------------------------------------------------

                      また、明晰性にも欠けます。「証人は見たと言った」は、「証人が言った」のか、「ほかの誰かが『証人が見た』と言った」のか判然としません ( 「家政婦は見たと言った」の場合、言ったのは家政婦ではない人だと読み取る方が自然)


                      しかし、人の言うことにケチをつけて、







                      (※ 村中なら、次のように改善します。

                      証人は言った。「店員は外の騒音に気を取られていました。容疑者が万引きをしたのはその隙です」)



                      この筆者は、主語と述語を近づければ文章は分かりやすくなると考えています。動作の主体である主語、その主体が行った動作である述語、この二つは近接した方が文章が分かりやすくなるという発想です。



                      しかし、この考えは誤りであると村中は考えます。この筆者の発想の根本には、「日本語の文章は主語と述語で成り立っている」という前提がありますが、実は、そうではありません。



                      少なくとも、日本語の「●●は、○○だ」という文章では、「●●」は主語ではないのです。





                      *** 「は」は主語ではない。



                      I am Muranaka という英語は、一般に「私は村中です」と訳されます。英語の"I"は主語なので、じゃあ、「村中は」も主語。つまり「は」は主語を表す言葉なんだねという理解になります。「僕は今日町に出かけました」、「ごはんはおいしい」、「おかあさんはやさしい」などの文では、なるほど「は」は主語です。

                      しかし、「<は>は主語と表す」と決めてしまうと、いろいろ不都合が起きます。次の文がそうです。



                      「あいつは嫌いだ」 (嫌っているのは私です。主語は私のはずです)

                      「ラーメンは好きです。そばは嫌いです」 (同上)

                      「ゾウは鼻が長い」 (長いのは鼻です。つまり<長い>の主語は<鼻>です。じゃあ、<ゾウ>は何なんでしょうか?)

                      「今日は町にでかけよう」(町に出かけるのは、私です。<今日>が出かけるわけではありません)

                      「男は度胸、女は愛嬌」(<男>と<度胸>はイコールではありません。<私は村中です>とは異質の文です)

                      「本当は、俺、つらいんだ」(つらいのは<俺>です。主語は<俺>のはず)



                      これらの文を「異質な例外」と決めつけるのも一つの手ですが、そうなると日本語には例外があまりにも多すぎることになります。それはもう「例外」とはいいません。



                      ***「は」はテーマを表す。



                      実は、「は」を主語扱いにしているのは一般書だけです。日本語の専門の文法書では、「は」は「提題」の助詞であると記述されています。



                      提題というと、いかにもいかめつらしい語ですが、言わんとすることは「お題を提示する」、つまり「テーマを示す」ということです。



                      「は」は主語を表す語ではなく、「テーマ」を表す助詞なのです。



                      そう考えると、先ほど「例外」扱いされた文章もすべて説明がつきます。





                      「あいつは嫌いだ」

                       → 「あいつについて言えば、俺は嫌いだ」



                      「ラーメンは好きです。そばは嫌いです」

                       → 「ラーメンについて言えば、好きだ。そばについて言えば嫌いだ」



                      「ゾウは鼻が長い」

                      → 「ゾウについていえば、あの動物は鼻が長い」



                      「今日は町にでかけよう」

                          → 「今日について言えば、町にでかけることにする」



                      「男は度胸、女は愛嬌」

                          → 「男について言えば、度胸がだいじだ。女なら愛嬌だ」



                      「本当は、俺、つらいんだ」(つらいのは<俺>です。主語は<俺>のはず)

                          → 「(見せかけではなく)本当の気持ちについていえば、今、つらい」





                      テーマというのは、つまり「強調したいこと」です。何を強調したいかによって、「は」にくっつく言葉は変わります。



                      「今日は町にでかけよう」は、



                      「町には今日でかけよう」

                      「町に出かけるのは今日にしよう」



                      という風にも帰られます。



                      応用編としては、



                      「あいつとだけは、町にいっしょにいきたくない」

                      「あなたとは、町にでも出かけたいな。今日は」



                      のような文章も可能です。こうして見ると、日本語は多彩な表現が可能で、なかなか便利な言葉ですね。





                      テーマは、文に一つではなく、いくつかの文が集まった段落に一つあれば良いとも考えられます。というわけで次のような文が可能になります。



                      ---------------------------------------------------------------

                      ラーメンは美味い。一杯飲んだシメとして、あつあつの麺をはふはふ言いながら食べ、脂肪分の多いこってりしたスープを残さず飲み干す。太ったってかまうものか。この至福の時が味わえるならば。

                      ---------------------------------------------------------------



                      この文章では、いわゆる「主語」はすべて省略されていますが、冒頭で「ラーメン」というテーマが示されており、それは段落内で一貫しているので、文章のわかりやすさは失われません。主語を省いてもOKです。テーマさえ一貫していればよいのです。





                      なお、「今日は、町に出たのは買い物をしたいと思ったからです」のように、一つの文章中に「は」が何度も出てくるのは、「まちがいとはいわないが、ぎこちない文」とみなされます。



                      これは、一個の文の中に、テーマがいくつもあると、焦点が拡散するので良くないという考え方です。





                      *** テーマは冒頭にあるのが原則



                      テーマというからには、それは文の冒頭で示されるのが望ましいと言えます。



                      冒頭で示した「店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った」という文が、「改善例」と称しながらも結局わかりにくいのは、「証人は」という、テーマを表す単語が文の後の方に来ているからです。



                      ちなみにこの文が分かりにくいのは、「証人は見たと言った」、「店員は騒音に気を取られていた」、「容疑者が万引きをした」という三者が登場するシーンを無理矢理ひとつの文に纏めようとしているからです。



                      村中の改善例である「証人は言った。『店員は外の騒音に気を取られていました。容疑者が万引きをしたのはその隙です』」は、そうした無理をせず、3つの事象は3つの文で表しました。各々文の冒頭に「証人は」、「店員は」、「容疑者が万引きをしたのは」という形で文のテーマが示してあります。



                      文章を分かりやすくするために大事なことは、「主語と述語を隣接させること」ではなく、「テーマ(=話の地図)を最初に示すこと」だというのが村中の考えです。



                      *** 「主語と述語を隣接させるのは、必ずしも文章術の主流ではない」



                      「主語と述語を隣接させることが分かりよい文章につながる」という発想の根底には、おそらく欧米言語の明晰性への憧れがあると考えます。



                      「私は今日、買い物をしに町へ出かけませんでした」という文では、最後の最後で文の意味がひっくり返ってしまう。なんて厄介な(遅れた)言語なんだ、日本語は。これが英語なら、I did not go shopping … というように、主語と述語が隣接しているから、重要な情報は文頭に全部集まっている。やっぱり、英語は明晰だ。これに習って、日本語も主語と述語は近づけるべきだ、と。



                      村中はこの考え自体に反対はしません。たしかに英語は、すばらしく明晰な言語であり、それに学んで得られる果実は大きいといえます。



                      しかし、良い文章構造を持つ言語は英語以外にもあります。たとえば古代ローマ帝国の言語、ラテン語がそうです。



                      今、科学論文がみな英語で書かれるのと同様、かつて欧米の学問的著作は全てラテン語で書かれました。ラテン語こそは、論理を表すための最も明晰な言語であると見なされたのです。



                      英語もフランス語もドイツ語も、その文法構造や語彙や文章術の多くをラテン語から吸収しています。



                      では、その「明晰性のお手本」の言語であるラテン語では、主語と述語は、英語がそうであるように、互いに隣接しているのでしょうか。



                      いいえ、そんなことはありません。ラテン語では、動詞は最後に置くのが標準の文章作法でした。これが実に不思議なことなのですが、ラテン語は、英語をはじめとする欧米語の源流言語でありながら、こと「語順」に関しては、英語よりも、日本語の方に近いのです。



                      Amici Flaccum  in atrio salutant.

                      「友人たちはフラックスに入り口の広間で挨拶する」



                      Amici(友人たちは) Flaccum(フラックスに) in(で) atrio(入り口の広間)、salutant(挨拶する)



                      となります。語順が日本語とほぼ同じなのが分かると思います。動詞は文章の最後に来ています。



                      もう少し複雑な文章を見てみましょう。



                      +++ 1:



                      Hoc tempore obsequium amicos, veritas odium parit.

                      「今の時代では、追従が友を、真実は憎しみを生む」.



                      Hoc(今の) tempore(時代では) obsequium(追従が) amicos(友を), veritas(真実は) odium(憎しみを) parit(生む).



                      +++ 2:

                      Ariovistus ad postulata Caesaris pauca respondit, de suis virtutibus multa praedicavit

                      「アリオウィストゥスは、カエサルの要求には少しだけ応え、自らの武勇については多くを広言した」



                      Ariovistus(アリオウィストゥスは) ad(には) postulata(要求) Caesaris (カエサルの)pauca(少しだけ) respondit(応え), de(については) suis(自らの) virtutibus(武勇) multa(多くを) praedicavit(広言した)



                      +++3

                      Viros, fortes, maganimos, eosdem bonos et simplices, veritatis amicos esse volumus



                      「人士たるものは頑強かつ精悍で、それと同時に善良かつ率直な、真実を愛する士であることを、我らは望む」



                      Viros(人士たるものは), fortes(頑強かつ), maganimos(精悍で), eosdem(それと同時に) bonos(善良) et(かつ) simplices(率直な), veritatis(真実を) amicos(愛する士で) esse(あることを) volumus(我らは望む)

                      +++4

                      Nihil agendo homines male agere discunt.

                      「何もせぬことにより人間は悪事を為すことを学ぶ(小人閑居して不善を為す、の意味)」



                      Nihil(無為を)agendo(することで) homines(人間は) male(悪事を) agere(為すことを) discunt(学ぶ).



                      +++4

                      Ad eas res conficiendas biennium sibi satis esse duxerunt;

                      「これらのことを完遂するには2年あれば自分たちには十分であると見積もった」



                      Ad(には) eas(これらの) res(ことを) conficiendas(完遂する) biennium(2年<あれば>) sibi(自分たちには) satis(十分で) esse(あると) duxerunt(<彼らは>見積もった)



                      なお、英語では次のようになります。



                      They reckoned that a term of two years would be sufficient for them to execute their designs; 



                      They(彼らは) reckoned(見積もった) that a term of two years(2年も) would be(あれば) sufficient(十分だ) for them(自分たちが) to execute their designs(この計画を実行するには); 





                      ラテン語や英語とは語順が真逆になっているのがわかります。



                      ---------------------------------------------------------------



                      いずれの文章も十分に複雑な内容を語っていますが、語順は日本語訳とほぼ同じです。違うのは前置詞ぐらいです。



                      いずれの文章を見ても、ラテン語では、動詞が最後に置かれていることがわかります。



                      では、なぜラテン語では動詞の位置は末尾なのか。日本語の場合は、「それが決まりだから」というのが理由です。「私は・です・村中」という文は作れません。



                      しかしラテン語は屈折語なので、語順はほぼ完全に自由です。つまり、「私は・です・村中」式の文章を作ることも可能。それでも文章として成立します。



                      したがって、ラテン語の文章家が動詞を最後に置いているのは、そうせざるをえないからではなく、それが一番いいと思うから進んでそうしている、ということになります。



                      ラテン語の文章では、一番大事な場所は文の始め、二番目に大事なのは文の最後と考えます。それにしたがって、一番大事な単語は文の先頭に、次に大事な物は最後に置くのです。最初と最後をビシッと締めようという考えです。



                      主語の位置は、動詞ほど一定ではありませんが、重要な情報なので文頭に来ることが多いです。ということは、ラテン語では、主語と動詞は近接しません。それどころか、ものすごく遠距離に離れるのです。



                      ラテン語と日本語は語族も文法構造もまったく違う言語なので、安易に同一視することはできません。しかし、語順、すなわち「情報を提示する順番」において、古代ローマの名文家が、「こうするのが一番分かりやすい。よく伝わる」と考えた順番が、日本語のそれとほぼ同じであることは非常に興味深く思えます。



                      少なくとも、英語のように主語と動詞が近接して文頭に並ぶ語順が、分かりやすい文章の必須条件であるということは、決してありません。



                      **** テーマ・レーマ構造。



                      先に例示した文章では、ラテン語でも日本語でも「テーマ」を表す単語が文頭に来ています。



                      Hoc(今の) tempore(時代では) 

                      Viros(人士たるものは)

                      Ariovistus(アリオウィストゥスは) 



                      これは偶然ではなく、「テーマを文頭で示す」ことは、日本語だけでなく、ラテン語でも良い文章の標準形と見なされます。



                      Horum omnium fortissimi sunt Belgae, 

                      「これらすべてのうち最も勇敢なのは、ベルガエ人である」



                      Horum(これら) omnium(すべてのうち) fortissimi(最も勇敢なのは) sunt(である) Belgae(ベルガエ人),



                      この文章では、「Horum omnium fortissimi これらすべてのうち最も勇敢なのは」がテーマで、その答が、「Belgae(ベルガエ人)」です。



                      このように文の始めに「テーマ」を置き、その後で「 そのテーマへの説明、謎解き」を行う構造を、「主部・述部(テーマ・レーマ)構造」と言います。



                      なお動詞は、「何らかの動き」を表すものであり、それは主題に対する「謎解き(●●は、こう動いた)」として機能するのが通常です。これがラテン語の文章で動詞が最後に位置する理由であると思われます。





                      *** 英語も結局はテーマ・レーマ構造。



                      実は、英語でも、このテーマ・レーマ構造は多用されます。



                      +++1:

                      Nothing is more important than time

                      テーマ:Nothing is more important than (何にもまして重要なのは)

                      レーマ:time (時間である)。



                      +++2:

                      Histroy begins when men begin to think of the passage of time in terms of …



                      +++3:

                      テーマ:Histroy begins (歴史が始まるのは)

                      レーマ:when men begin to think of the passage of time in terms of …(人間が時間の経過を…という観点で考え始めたときである)



                      +++4:

                      With these changes of civilization came a new way of life

                      テーマ:With these changes of civilization (文明がこのように変化したその結果として、)

                      レーマ:came a new way of life(新しい生活様式が到来した)



                      +++5:

                      He died young.

                      テーマ:He died (彼は死んだ)

                      レーマ:young(若くして)



                      英語の場合は、「既知・未知 構造」とも呼ばれます。文章の最初には、既知情報を置き、後には新情報を置くのです。



                      これは結局、テーマ・レーマ構造と同じです。なぜならテーマ(主題)とは、書き手にも読み手にも共通の認識、すなわち「既にお互い分かっていること」、すなわち「既知情報」でなければならないからです。



                      *** 中国語もテーマ・レーマ



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